ウィーン国立歌劇場アーカイヴ(69)

今週のウィーン国立歌劇場の目玉は8日に紹介した無観客公演「フィガロの結婚」のライブ配信(実際は三日遅れの配信)でしたが、再放送の合間を縫うように「皇帝ティトの慈悲」が日本時間で11日にアーカイブ配信されました。
資料によれば2016年4月4日の舞台を収録したもので、以下のキャストです。

モーツァルト/歌劇「皇帝ティトの慈悲」
ティト/ベンジャミン・ブリュンス Benjamin bruns
ヴィッテリア/カロリーネ・ウェンボーン Caroline Wenborne
セルヴィーリア/ヒラ・ファヒマ Hila Fahima
セスト/マルガリータ・グリツコヴァ Margarita Gritskova
アンニオ/ミリアム・アルバーノ Miriam Albano
プブリオ/マヌエル・ヴァルサー Manuel Walser
指揮/アダム・フィッシャー Adam Fischer
演出/ユルゲン・フリム Jurgen Flimm
舞台/ジョルジュ・ツィピン George Tsypin
衣装/ブリギット・ハッター Brigit Hutter
照明/ヴォルフガング・ゲッベル Wolfgang Goebbel

どうやらこれはオースリア国内向けの配信だったようで、字幕はドイツ語と英語のみ。このオペラを初めて見る方、いくつかの楽曲しか聴いたことが無いというファンにとっては些かハードルが高いかもしれません。
今回のフリム演出は舞台を思い切り現代に置き換え、本来の舞台設定であるフォロ・ロマーノ、パラティーノの丘、コロッセオなどは一切出てきません。漠然と映像を見ていては人物関係も理解できないでしょうし、何が歌われているかを想像するのも厳しいでしょう。ということで、先ずはネットなどで荒筋や聴き所を確認してから鑑賞されることをお勧めします。

このオペラは、「魔笛」を作曲中だったモーツァルトがプラハの興行師から新作依頼されたもの。ハプスブルク帝国皇帝に即位したレオポルド二世がボヘミア王を兼任することになり、プラハでの戴冠式を祝うための皇帝礼賛ものとして書かれたオペラ・セリアです。
題材となった皇帝ティトは、暴君とされるネロが自害した後、ローマ史では「四皇帝内乱の時代」に君臨した皇帝の一人で、実際に名君として今日までその業績が讃えられている実在の人物です。台本に描かれているティト帝暗殺計画や、ティトのセルヴィリアへの求婚は台本作家メタスタージオの創作だそうですね。

現代ではオペラ・セリアは余り人気が無く、この傑作も上演される機会は稀でしょう。私は2006年4月に二期会が新国立オペラ劇場で上演した舞台を見たのが唯一の機会で、その時はペーター・コンヴィチュニー演出、ウィーンでもお馴染みのシモーネ・ヤング指揮、ハンブルグ州立劇場との共同制作でした。
何しろ見たのがコンヴィチュニー演出でしたし、今回の配信も原作の舞台設定とは大きくかけ離れたフリム演出ですから、オーソドックスな台本に忠実な舞台を一度は見てみたいものだと思っています。見当違いな感想になるのはご容赦ください。

今回の演出では、序曲の最後で幕が上がります。黙劇の中で暗示されるのは、遠征先(ユダヤ戦役)から戦争中に知り合った恋人でヘロデ王の娘ベレニーチェを伴って帰国するティト、恋仲であるセストとヴィッテリア、同じく愛し合うアンニオとセルヴィーリアの3組のカップル。荒筋を頭に入れておけば、開幕前の黙劇の意図が理解できるでしょう。
私が見た2006年の舞台ではベレニーチェは出てこなかったと記憶しますが、この役は一言も発しない黙役で、今回はモスケラ・ボニラ・マリア・デル・ピラー Mosquera Bonolla Maria del Pilar という黒人女性が常にティトに寄り添うという演出です。

主役たちのアリアにしても、その場では歌わない登場人物が演技をサポートし、歌詞に合わせて見るものにその内容を暗示していくというパターン。例えば全曲の最後にヴィッテリアが歌う大アリア「夢に見し、花嫁姿」(第23番)では、刑場に曳かれていくセストを登場させ、ヴィッテリアの揺れる気持ちを暗示させる。
一方、第2幕でセストが千々に乱れる心を歌うアリア「ああ、ただ一度心を開いて」(第19番)では、セストがプブリオに「不実な(infedele)」「裏切り者(traditor)」というレッテルを貼られながら歌う。少しでもオペラの内容を判り易く見せようという工夫でしょう。

しかしながら疑問符が付くような演出もあって、例えば合唱団の扱い。第1幕のフォロ・ローマの場面、第1幕フィナーレ、第2幕冒頭のパラティーノの丘、第2幕フィナーレのコロッセオで歌う合唱団は、何れの場面でも譜面台を前に横一列、一切演技をすることがありません。演出の意図は判りませんが、個人的には何とも違和感が残る処置だと感じました。
第1幕の冒頭で歌われるヴィッテリアのアリア「私を喜ばせたいとお望みなら」(第2番)では、お付きの女性たちが差し出す衣装を次々と拒否しながら歌う。彼女の傲慢さを表現しているのでしようが、女性たちの服装共々、私には滑稽にすら感じられました。

音楽面では、全てのナンバーを演奏する、ほぼパーフェクトな全曲演奏と言えるでしょう。僅かにあったカットは、第1幕第4場のマーチと合唱の繰り返しだけ。前記2006年の二期会公演では第2幕冒頭のアンニオのアリアがカットされた筈ですが、今回の配信ではモーツァルトが書いた音符を全て聴くことが出来る貴重な記録とも言えるでしょう。

音楽的なことで一言付け加えておくと、オペラ・セリアでは「ロンド」という形式のアリアが最大の聴き所であること。ロンドは主役のみが歌うことを許されている楽曲で、「ティト帝の慈悲」ではセストが歌う第19番(上記)とヴィッテリアのロンド第23番のみ。有名なクラリネットの華やかなオブリガートを伴うのは、この23番と、第1幕でセストが歌うアリア「私は行くが、君は平和に」(第9番)だけであることも指摘しておきましょう。
ロンドの意味に付いては、先日紹介した「イドメネオ」では、モーツァルトがウィーン稿で書き加えたイダマンテのアリアのみがロンドであったことを思い出してください。

全曲の幕切れ、音楽はティト帝の慈悲を讃えてハッピーエンドとなりますが、フリム演出ではティトはべネディーチェと抱き合い、セストとヴィッテリアは舞台上手と下手に離れたまま。しかもセストが隠し持った銃をこめかみに当てて恰も自殺するような素振り。「イドメネオ」でも演技上は悲劇を連想させましたが、ウィーンではこのような演出が主流なのでしょうか?

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