日生劇場公演「魔笛」

6月17日、有楽町の日生劇場でスタートした開場55周年記念公演モーツァルト・シリーズの第一弾、「魔笛」の二日目を聴いてきました。
大変に見応え、聴き応えのある舞台で、モーツァルト歌劇の素晴らしさに感動。少し長くなりますが、出演者諸氏の名前をリストアップしておきましょう。

モーツァルト/歌劇「魔笛」
 ザラストロ/伊藤貴之
 タミーノ/山本康寛
 パミーナ/砂川涼子
 夜の女王/角田祐子
 パパゲーノ/青山貴
 パパゲーナ/今野沙知恵
 モノスタトス/小堀勇介
 侍女Ⅰ/田崎尚美
 侍女Ⅱ/澤村翔子
 侍女Ⅲ/金子美香
 童子Ⅰ/盛田麻央
 童子Ⅱ/守谷由香
 童子Ⅲ/森季子
 弁者&僧侶Ⅰ/山下浩司
 僧侶Ⅱ/清水徹太郎
 武士Ⅰ/二塚直紀
 武士Ⅱ/松森治
 合唱/C.ヴィレッジシンガーズ(合唱指揮/田中信昭)
 管弦楽/新日本フィルハーモニー交響楽団
 指揮/沼尻竜典
 演出・上演台本/佐藤美晴
 ドラマトゥルク/長島確
 美術/池田ともゆき
 照明/伊藤雅一(RYU)
 衣裳/武田久美子
 ヘアメイク/橘房図
 映像/須藤崇規
 舞台監督/幸泉浩司、井坂舞

日生劇場が開場したのは1963年、ベルリン・ドイツ・オペラが「フィデリオ」で杮落しを行ったのですが、その時のフィデリオ、フィガロ、トリスタンはテレビで観戦しました。オープニングはフジテレビが生中継していて(今では考えられませんが)、私は音楽嫌いの両親を口説き落としてテレビを独占して見入ったものです。
それから3年、第2回のドイツ・オペラ公演では魔笛と後宮、それにオランダ人が上演され、私もチケット購入の列に徹夜で並んで魔笛を観たものでした。これが私の日生劇場デビューで、同劇場の「魔笛」には特別な感慨があるのです。

昔話になってしまいますが、あの時は私の二つ隣の席に陣取った男がスコアを持ち込み、客席が真っ暗になるのを見越して懐中電灯まで用意して楽譜と睨めっこ。それだけなら未だ許せるのですが、最初の方で歌が終わるや、未だ後奏が鳴り響いているにもかかわらず派手に拍手を始めました。ぶん殴ってやろうか、と思う間もなく、指揮台のヨッフムが客席に向かって“しーッ“と制止。そんな悪夢も経験した公演でしたっけ。エフリガーがタミーノを歌った公演でしたが、そんな些事こそ覚えているものの、舞台の細かい印象は殆ど覚えていません。
以後は東ドイツの来日公演、トーマス・アレンがパパゲーノを演じたコヴェントガーデンの上演などを思い出します。その公演ではパパゲーノとパパゲーナの子供たちがわんさか登場し、カーテンコールの際、アレンが指揮者のサー・コーリン・デイヴィス夫人が懐妊中と公表し、満場の喝采を浴びていたのが昨日のことのよう。時は流れましたね。

魔笛にはコヴェントガーデンのお伽噺のような演出から、時の政権批判を持ち出す辛口なものまで様々な解釈があるのはご存知の通り。今回は平成24年度に五島記念文化賞オペラ新人賞を受賞した佐藤晴美氏の演出、というのも大きな話題の一つでしょう。この公演も氏の海外研修の成果発表の場として、五島記念文化財団の助成を受けていました。私は佐藤演出をインキネン/日フィルの「ラインの黄金」で体験し、好印象を得ています。
更に、日生劇場のモーツァルト・シリーズは中・高校生に「本物の舞台に触れる機会を」という啓蒙活動を一環でもあり、一般公演の他に学生に舞台を公開してもいます。比較的廉価で、という趣旨からプログラムが無料で配布されるのも特徴と言えるでしょう。当シリーズ、このあとは引き続き「ドン・ジョヴァンニ」が控えており、秋には「コジ・ファン・トゥッテ」「後宮からの逃走」と続きます。
4公演のセット鑑賞券というものも販売されていましたが、4本全部は体力的(もちろん経済的にも)に厳しいので、私は2本セットを選択。もう1本は秋の「コジ」を選びました。

その佐藤演出、プログラムにドラマトゥルクの長島氏が書かれているように、対立する二つの世界、夜の世界と昼の世界が背中合わせになっており、老いていく世代が若い世代へと交代していく物語というコンセプトに貫かれているようです。世代間ギャップと、それを乗り越える愛、ということでしょうか。この二つの世界を自由に行き来するモノスタトスの存在にも大きな意味を持たせている、と見ました。

従って合唱団は全員が灰色の服を纏い、頭髪はごま塩。夜の女王は膝が痛むのか杖を衝いて登場し、ザラストロも劇中で二度ほど心臓発作を起こすような演技。対する若い二人は白い衣装で登場し、親世代との対照を表現しています。
後で気付いたことですが、冒頭に登場する大蛇(実際には合唱団の集団)は、老人世代が若いタミーノに押し付ける自分たちの主義主張の象徴で、これこそ世代間のギャップを表現しているのでしょう。

斯様に魔笛を現代にも通ずる社会問題として捉えることも可能でしょうが、佐藤演出はそれを前面に出すのではなく、ヒントとして聴き手に暗示するに留めていたことが好ましい結果を生んだ、と私は考えます。
ジングシュピールは歌芝居と訳されるように、歌と共に芝居も大切な要素。そのセリフも冒頭こそ“Wo bin ich?” とドイツ語で始めましたが、いつの間にか日本語に。パパゲーノが“我々はドイツ語で喋っていても、この空間では自然に日本語に聞こえてしまう。凄いね、日生劇場” という具合に客席を和ませます。日本語の台詞なら社会風刺もありでしょうが、佐藤が手掛けたのはあくまでもシカネーダー(近年は異説も出ているようですが)のオリジナルに忠実。(歌唱はドイツ語、台詞は日本語)
それでも、例えば字幕の日本語には「イケメン」や「マンガ」など若者にも入り易い単語が選ばれ、スマホで検索という今風な演出も使われていました。

最後の大団円では若いカップルを讃える合唱の影で、心臓を病むザラストロが倒れた夜の女王にそっと手を差し出す場面も見られ、単なる目出度しめでたしのお伽噺ではない、という問題提起も成されていました。それが過度にならず、気付いた人だけが納得すればよい、という暗示程度に留めたのも成功でしょう。

オーディションで選抜されたという歌手たちも夫々に素晴らしく、特にパミーナの砂川とモノスタトスの小堀は、歌唱と並んで演技も秀逸。モノスタトスの存在感が魔笛をより立体的に描いていましたが、これは佐藤演出の一つの意図でもあったと思われます。その意味は、観客夫々の判断に委ねられましょう。
しかし、やはり主役はモーツァルトの音楽。恐らく初演当時はイタリア・オペラ風の華麗なスタイル、グルックを偲ばせるドイツ的な味わい、バッハ譲りの厳格な音楽などのごった煮的な要素がふんだんに盛り込まれた作品として聴かれたのでしょうが、それらが全てモーツァルトの大きな翼の基に統一されているところが凄いのです。私は劇中何度も泣いてしまいましたが、悲劇でもないのに聴き手の涙腺を刺激するのは、モーツァルト作品の強さに他なりません。ハンカチ持参必至の魔笛公演でした。

忘れてはいけないのが、指揮の沼尻。新日本フィルから透明な響きを引き出し、対位法的な動きにもシッカリと光を当て、弦と管楽器とをバランス良く響かせる手腕は流石。最後の試練に向かうタミーノにパミーナが駆け寄る場面、主調の変ホ長調がゆるりとヘ長調に転調して“Tamino, mein!”と歌い出す所、モーツァルトは特に書き記していませんが、沼尻は p から pp へとリタルダンドしながら音量を落とし、十分にフェルマータで間隔を開ける辺りの呼吸は、マエストロがびわ湖やリューベックで積んだ経験が大いにモノを言っているのだと確信します。

最後に、公演終了後に演出家・佐藤美晴によるアフタートークが行われました。この催しも最後まで熱心に聞かれた方も多くおられましたが、その内容はプログラムに「五島記念文化賞オペラ新人賞研修成果発表にあたって」と自身が書かれていることとほぼ同じ。長島氏の司会で、ロンドンのENO、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場、シュトゥットガルト歌劇場での体験が興味深く語られましたが、ENOでヴォーン=ウイリアムズのオペラを演出した笈田ヨシ氏から大きな啓示を受けたという Silent Direction という考え方に惹かれましたね。

今回のプログラムには、最後にオペラ新人賞のこれまでの受賞者リストが掲載されていることに気付きます。それを眺めると、演出の佐藤氏の他にもタミーノの山本、パミーナの砂川、パパゲーノの青山、パパゲーナの今野と受賞者がズラリ。五島記念文化賞による魔笛と言えなくもありません。今回のように素晴らしい舞台を体験すると、私はどうしても官製オペラより五島文化財団、日生劇場、二期会、藤原歌劇団などの民間主導の公演に肩入れしたくなってしまうのでした。

 

 

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