日本フィル・第344回横浜定期演奏会

2019年を迎えて最初のコンサート行、以下のプログラムによる日本フィルの横浜定期演奏会でした。会場はみなとみらいホール。前回の演奏会レポートは去年12月21日の神奈フィル第9@神奈川県民ホールでしたからほぼ3週間ぶり、ブログの書き方も忘れてしまいましたわ。
日本フィルの1月横浜はドヴォルザークの新世界が定番。もう聴き飽きた、という会員も多いのでしょうが、今年は下野竜也のドヴォルザーク、正月ボケを一気に吹き飛ばしてくれる快演でしたね。

ベートーヴェン/「プロメテウスの創造物」序曲作品43
ブラームス/ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調作品102
     ~休憩~
ドヴォルザーク/交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」
 指揮/下野竜也
 ヴァイオリン/三浦文彰
 チェロ/ヨナタン・ローゼマン Jonathan Roozeman
 コンサートマスター/木野雅之
 ソロ・チェロ/菊地知也

一見すると下野にしては関連性に乏しいプログラムのようにも感じられますが、そこはオーケストラ・ガイドの小宮正安氏が独特の視点から解き明かしてくれました。そのキーワードは「文化交流から生まれたプログラム」。
コンサートの幕開けとして紹介されるベートーヴェン、ベートーヴェンと言えばドイツ音楽の権化のように思われますが、このバレエ作品のための序曲、実はナポリ生まれのイタリア人舞踏家サルヴァトーレ・ヴィガーノの依頼を受けて作曲された一品とのことで、ドイツとイタリアの交流から生まれた名曲ということになります。ヴィガーノ夫人はスペインの女性だったというエピソードも。

続くブラームスとドヴォルザークの交友は有名ですが、ブラームスの所謂ドッペル・コンチェルトは、一言で言えば「和解の協奏曲」。和解とはブラームスと親友だったヨーゼフ・ヨアヒムとの間の事で、当時ヨアヒムは離婚しましたが、ブラームスが夫人を擁護したために二人の友情にヒビが入り、険悪な関係に陥ってしまいます。友情が深かっただけに、修復は困難。
結果的に二人の仲介役となったのが、ベルリン芸術大学に講師として招かれたチェリストのローベルト・ハウスマン。ベルリン芸術大学の学長こそヨアヒムで、ハウスマンもヨアヒム弦楽四重奏団でチェロを受け持っていた関係もあり、ブラームスを識ります。ブラームスもハウスマンの演奏に感銘を受け、作曲したのがドッペル・コンチェルト。

最後のドヴォルザークに付いては、ニューヨークにナショナル音楽院を創設したジャネット・サーバー女史がテーマ。彼女はそもそもデンマーク系のアメリカ移民の娘で、若い時にはパリ音楽院で学んだ経験もあるそうな。アメリカ・オペラ・カンパニーも設立した彼女は、外国からの文化をミックスしながらアメリカ文化を築いていくという信念を持ち、ナショナル音楽院の教育理念でも黒人を差別することなく受け入れると宣言している、ということが紹介されました。
小宮氏のトークは、“文化が敵対している現代だからこそ、今回の文化交流プログラムに耳を傾けて欲しい”との結論。なるほど、納得です。

ということで、最初はベートーヴェンの短い序曲。第1交響曲と同じハ長調ですが、作曲は交響曲より1年ほど後。主部のテーマ(Allegro molto con brio)がチョッと第1と似ていますが、序奏から主部に入る手続きはシンフォニーほど凝った作りにはなっていません。僅かにハ短調に転ずる場面もありますが、爽快な演奏に身を委ねている内に序曲は終わってしまいます。

指揮台周りに舞台係がチェロ用の雛段を設定し、ブラームスへ。今回のソロは若き二人、ヴァイオリンの三浦は改めて紹介することもないでしょう。NHKが取り持たなくとも下野との共演も多く、互いに実力を認め合う間柄でもあります。
一方のローゼマンは、三浦より更に4歳ほど年下で、私は今回が初体験。未だ二十歳になったばかりでしょうが既にキャリアは世界クラスで、テクニックは無論のこと、実に朗々たる音色でブラームスを響かせてくれました。
特に下野/日フィルの緻密なサポートで二人を際立たせた第2楽章が秀逸で、ここはほとんど室内楽の世界だったと思います。ファースト・ネームの Jonathan はジョナサンではなくヨナタン、フィンランド系のオランダ人だそうです。

休憩を挟んで、メインのドヴォルザーク。耳に胼胝ができるほど聴いている新世界よりですが、やはり下野の指揮は目から鱗、いや耳から鱗の新鮮な解釈で驚かせてくれます。その第一は、プログラムに掲載されていた楽器編成を見れば理解出来るかも。煩わしいかもしれませんが引用すると、
フルート2(ピッコロ持替1)、オーボエ2(イングリッシュ・ホルン持替1)、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン2、バス・トロンボーン1、ティンパニ、シンバル、トライアングル、弦5部。というもの。
つまり、普通の演奏では使われる筈のチューバ1が欠けているのですね。チューバをカットするのは読響正指揮者時代からの下野の拘りで、今回の日本フィル企画制作部が纏めた編成表にも反映されていました。但し、このリスト、オーボエ2でイングリッシュ・ホルンは2番オーボエが持ち替えると読めるのは誤りで、実際にはイングリッシュ・ホルン奏者が別に一人加わっていました。チューバはファインプレーでしたが、イングリッシュ・ホルンは見落としか、あるいはリハーサル中に変更があったのでしょうか?

そもそもチューバは第2楽章のみ、それもバス・トロンボーンと同じパートをなぞるだけの役割で、第2楽章の透明なアンサンブルを活かすための処置と考えるのが自然でしょうか。
しかしこの日の下野/新世界を聴いていると、第4楽章の最後で第2楽章のコラールが全奏で回帰してくるのがハッキリと聴き取れます。場所は練習番号12。第2楽章の ppp に対し第4楽章は ff なのですが、ここでは最初からチューバは使われていません。即ち単なる清澄感の追求に留まらず、二つの楽章での整合性を求めた、と理解しても良かろうかと感じました。

更にもう一か所、この演奏のキモ(個人的な感想ですが)を指摘すると、同じ第4楽章の再現部。第1主題が朗々と主調(ホ短調)で再現した後、音楽は静けさを取り戻し、音量を ppp にまで落としながら微妙に転調してホ長調に移行し、第2主題が登場する。この移行部、具体的には練習番号9の12小節から13小節に掛けて、コントラバスのトレモロが一気に1オクターヴも下降してホ長調に突入します。このコントラバス、下野は敢えてクレッシェンドを強調するように聴き手を刺激するのでした。
それは “ボーッと聴いてんじゃねぇよ~” と叱責するマエストロの声のよう。ここには度肝を抜かれましたワ。

第2楽章も素晴らしいもので、弱音表現の豊かなこと。それでいて重要なメッセージが伝わる。大切なことを語るときは、自ずと声は低くなる、そんな当たり前のことを突き付けられた思いでした。
最後の最後、減衰していく和音に聴衆も見事に反応。一定の間を置いて起きた拍手にも喝采を贈りたいと思います。

カーテンコールで指揮台に戻った下野 “時間が遅くなってしまいましたが、明けましておめでとうございます。アンコールは同じドヴォルザークの歌曲「我が母の教えたまいし歌」を管弦楽に編曲したものを用意しました。”
このアンコール、何とも豪華な編曲版で、オーボエがメロディー・ラインを吹くのは普通ですが、更にはトランペットのソロや、時にはヴィオラの合奏(この日のヴィオラ・パートは交響曲でも素晴らしく、思わずハッとするところがいくつもありました)も活躍するもの。一体誰のアレンジだろう、と演奏後も仲間内で話題になったほどでした。

まてよ、何処かでこの曲の編曲を見たような・・・。
帰宅してから私自身のブログ内を検索していて発見。去年10月、下野は広島交響楽団の定期、その本編で歌曲「我が母の教えたまいし歌」を取り上げていました。その編曲者は中原達彦。長崎生まれの作曲家で編曲も多く、これまでも下野も編曲作品のいくつかを取り上げてきたようです。確証を得た訳ではありませんが、恐らく今回のアンコールは中原達彦の編曲だろうと想像します。

因みに中原氏のフェイスブックを拝見すると、どうやら氏は私と同じオーレリアンである様子。オーレリアンとは「蝶を愛する人」という意味ですが、キシタアゲハを見に台湾に出掛けたというほどの通。(もちろん仕事の合間に蝶を探されたのでしょうが) 他にもツマキチョウやギフチョウの写真もゾロゾロ。
正月早々、何か嬉しい出会いがありました。

チューバの件も公示せず、編曲者名も一言も告げない、それでいて聴き手の好奇心を腹の底から呼び覚ましてしまう指揮者・下野竜也。やはり只物じゃない!!

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