日本フィル・第712回東京定期演奏会

ヨーロッパ風に9月から7月までを一つのシーズンとしている日本フィル、7月定期がシーズン最後の締め括りとなります。その7月、ここ暫くは横浜が西本智実、東京は広上淳一と指揮者も定着していますね。七夕指揮者と言うか、織姫と彦星と言うか・・・。
先週は久し振りに7月横浜定期を聴きましたが、東京定期は数十年間欠かしたことがありません。デビュー以来「追っ駆け」ている広上マエストロ、今年は、いや今年も見事なプログラムを組んできました。誰もが驚く以下のもの。

ラター/弦楽のための組曲
バッハ/ピアノ協奏曲第3番ニ長調BWV1054
フィンジ/エクローグ作品10~ピアノと弦楽のための
     ~休憩~
ハイドン/交響曲第104番ニ長調「ロンドン」
バターワース/2つのイギリス田園詩曲
 指揮/広上淳一
 ピアノ/小山実稚恵
 コンサートマスター/扇谷泰朋
 ソロ・チェロ/菊地知也

この選曲、誰が思い付いたのでしょう? もちろん主導したのは指揮者でしょうが、ソリスト、楽団からの意向も加わっての最終形になったと想像します。ここ数年広上が順次取り上げているバッハ作品が中核になったことは間違いないでしょうが。
そのバッハにフィンジ作品を並べたのはソリスト、かな?(実稚恵ちゃん、フィンジを暗譜で弾いてましたからね) そこから英国作品集というアイデアが浮かび、ハイドンのロンドン交響曲が浮上。英国なら思い切って知られざる作曲家を、という発想。これはあくまでも私の勝手な想像ですから信じないように。
序に言えば、広上は英国ロイヤル・リヴァプール・フィルの首席客演指揮者を務めていましたから、イギリスの音楽はいくつも手掛けた経験があるでしょう。更に冒頭で紹介したラターについては、5年ほど前の夏に京響がマニフィカトを取り上げたことがあり(広上の指揮ではありませんが)、その関係でマエストロの頭の中にインプットされていた作曲家かも知れません。これももちろん憶測。

幸いなことに現在ではネットで検索すれば楽譜も手に入るし、音源もNMLで自由に試聴することが出来ます。凡その知識を頭に入れ、出掛けようとパソコンをチェックすると、何とも興味深い情報が目に飛び込んできました。
それは日本フィルのツイッターで、今回のプログラムには物語的な流れがある、というもの。公になっているSNSですからそのままコピペさせていただくと、

ラター→無垢な笑顔の幼少期
バッハ→アカデミックな学生時代
フィンジ→甘酸っぱい青春(出逢いと別れ)
ハイドン→都会でバリバリお仕事
バターワース→自然囲まれ悠々自適な隠居生活

というもの。このツイッター、誰が書いているんでしょうね。私の頭の中にはバッハがアカデミックな学生時代とか、ハイドンは都会でバリバリお仕事と言う発想は浮かびませんでしたし、他の3曲も幼少期とも隠居生活とも関係ないでしょう。
こういうのを「印象操作」と呼ぶのでしょうか(笑)。それでもこの解釈、中々秀逸なアイデアで、ホールの定席に着いた時にはこの妄想で頭が一杯になってしまいましたワ。
ということで、人生の歩みに従って感想を綴っていきましょう。

最初に紹介されたラターは、私の一つ年上で現役の作曲家。主に合唱曲が知られてきましたが、京響がマニフィカトを定期演奏会で取り上げたのもその一つ。今回取り上げられた弦楽のための組曲は、林田直樹氏が書かれているプログラム・ノートでも紹介されているように、ナクソス盤「イギリス小弦楽曲集」に収録されて一躍話題になった作品です。
組曲は民謡をアレンジした内容で、林田氏の素敵な解説に補足すれば、第1曲「さすらい」はニ長調、Vivace 。第2曲「私の青の縁取りのボンネット」はへ長調で、Allegretto comodo e grazioso 。第3曲「おお、ウェイリー、ウェイリー」がト長調で Andante espressivo 、ヴァイオリンのソロで奏でられるメロディーが美しく、再現する時にヴィオラのソロが絡むのが聴き所。
最後の第4曲「アイロンをかけまくる」はニ長調 Presto で、つまり小さな交響曲の様に急速な楽章→スケルツォ風→緩徐楽章→急速な楽章という形で、調性もニ長調で始まってニ長調で終わるという、誰もが納得してしまう構成なのですね。このニ長調こそ、この後に続くバッハとハイドンにも共通するという所が、プログラム企画者の頭脳プレイというべきで、演奏会全体が一つの物語として完結させる効果にもなっているのでしょう。

ラター作品の編成にスタインウェイ・ピアノが加わり、バッハ。ピアノ協奏曲ではありますが、聴いて直ぐに判ったように、これはバッハ自身のヴァイオリン協奏曲第2番が原曲で、ヴァイオリンのホ長調から♯を二つ減じてニ長調に変えたもの。
小山/広上/日フィルのバッハは、古楽奏法などは意識せず、音楽する喜び、即ちムジチーレンに溢れた喜ばしいバッハ。昨今では余り聴かれなくなった堂々たるバッハに身を委ねます。

舞台上の全員が拍手を受けた後そのまま舞台に留まり、前半最後のフィンジへ。つまりバッハと全く同じ編成で演奏されます。
最近は日本でも時折聴かれるようになったフィンジ、その不幸とも呼べる55年の生涯は、林田氏が簡潔、かつ適切に紹介してくれています。作曲者の息子と友人が付けた「エクローグ」というタイトルは、林田氏は田園詩を意味すると解説されていますが、一般的には「対話」と訳されることが多いようです。解説の通り田園詩とすれば、後半最後のバターワース作品ともシンメトリックに繋がることになり、これには納得しました。

録音で聴いてはいましたが、やはりナマで聴けば感動は一入。この日最大の聴きモノがフィンジだったと思います。本来はピアノ協奏曲の一つの楽章になる筈だったそうですが、音楽的には大きく5つの部分に分けられるのではないでしょうか。
主調はへ長調で、Andante semplice 。文字通りピアノ・ソロが語り掛け、これに弦楽合奏が答えて行く。調はへ長調からニ長調、変ロ長調へと移って行き、フォルテ3っつで頂点へ。ここがエクローグのクライマックスでしょうか、聴く者の涙腺は一気に崩壊してしまうのでした。
フェルマータで気持ちを整え、音楽は変イ長調に転調し、最後はヘ長調に戻る。最後の1小節は弦楽合奏が役目を終え、ピアノ一人が静かにヘ長調のドミソの和音を奏でて全曲を終えるのです。甘酸っぱい青春という解釈に置き換えれば、真ん中の頂点で失恋を味わいながらも(号泣)、最後は平和なヘ長調のドミソで心の平静を取り戻す、という感想になるのでしょうか。誰かが映画音楽に使っても文句は言いません。

前半が終わると、私の近くに席を取っていた女性たちが “良かったねぇ~、泣いちゃった” と感想を述べあっていましたが、何と素晴らしい感性を持った聴き手たちであったことか・・・。

後半は元気よくハイドンから始めましょう。ここで初めて管楽器、ティンパニが舞台に上がります。しかもティンパニは、エリック・パケラが叩くバロック・ティンパニ。
かつてマエストロサロンが盛んだったころ、サロンでは「ハイドン大好き人間」というフレーズが流行っていました。正にハイドン大好き人間の首領格だったのが広上淳一。私はこのブログ内で何度も広上のハイドン聴くべし、と訴えてきましたが、この日も特に終楽章など大らかにしてパッションに溢れたロンドン交響曲を満喫しました。

そして意外にも最後に紹介されたのが、ヴォーン=ウイリアムスと共に民謡収集に熱心だったバターワースの集大成とも言うべき2つの田園詩曲。冒頭のラターと同じく民謡を素材とする聴き易い近代音楽です。
タイトルの通り2曲から成り、第1曲が変ロ長調の Allegro scherzando 、第2曲はト長調で Adagio non troppo 。コンサートを締める音楽とは言え、ハイドンと同じ2管編成との増減はトランペットが省かれ、ホルンが2本から4本へ、ピッコロ、トライアングルとハープが加わるという比較的小編成。ティンパニはもちろん、別途用意されているモダン楽器が使われます。

2曲とも弱音で静かに閉じられるのが如何にも英国的、隠居生活的で、第1曲はコントラバスのピチカートによる ppp で、第2曲はピアニッシモで奏でられるト長調のドミソで終わります。
何とも聴き手の心を温かくする作品たち、何もホールを圧するような大音量だけが音楽じゃない、音符の数が多けりゃ良い、てもんじゃないぞ、ということを改めて思い知らされる素敵なコンサートでした。来年7月、広上マエストロが取り上げるのはバッハと、あとは何でしょうか。

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