卯年生まれの大作曲家
お正月のお遊びネタ、第3弾に行きましょう。このところ恒例にしている干支に見る作曲家シリーズです。
ウサギそのものと言えば、先ずはボーッとした印象ですね。その表情は、何を考えているのか判りません。
漠然とウサギと称しても色々な飼育品種があるのでしょうが、祖先は地中海沿岸地方原産の穴兎だそうです。
その血を引いて、よく齧るし、よく穴を掘る。
穴兎が特に多かったのはイベリア半島で、昔フェニキア人がここに上陸したとき、穴兎に注目します。故郷にいるイワダヌキに似ていると思ったんでしょう。で、この地方を「イ・シェファン・イン」と名付けたのだとか。フェニキア語でイワダヌキは「Shephan」と言うのだそうです。
で、この「イ・シェファン・イン」をラテン語に翻訳すると「Hispania」となって、現在のスペインの語源になった、ということを岩波新書で読みました。(奥本大三郎著・干支セトラetc,)
だから今年はスペインの年かなと思ったけれど、サッカーに勝ったのは去年だっけ。ま、お遊びですから固いことは言わない。
さて卯年生まれの性格を高島歴に探すと、ウサギからの連想で「他人を疑わない、人の好い社交家」であり、「人の世話を良く見るので人望が厚い」とあります。
更に「自分の領域や限度をよくわきまえ」ている半面、「気紛れで決断力に欠ける」のが難点だとか。
ということで音楽史を紐解くと、中々大作曲家と呼べるような人物が出て来ませんね。17世紀も18世紀もピンと来るような作曲家には遭遇しません。
やっと1819年になって二人が目に止まりました。オッフェンバックとスッペ。何か良く似た二人ですねぇ~。片やパリで、片やウィーンでオペレッタを広めたという点が共通していますし、「自分の領域や限度をよくわきまえ」というところも、そうかな、と納得してしまいます。
そう言えば「天国と地獄」序曲と「軽騎兵」序曲がカップリングされたレコードなんかもありましたよね。この二人が同い年だったことに改めてビックリ。
オペレッタの二人から24年後に、ノルウェーのグリーグを発見。ピアノ協奏曲という名曲もあるけれど、この人は小品が得意でしたね。やっぱり自分の領域が良く判っていたみたい。
グリーグのあとは卯年生まれが続きます。次の1855年にはショーソンとリャードフ。1867年はジョルダーノとグラナドス。
次の1879年にはイタリアからレスピーギが出ましたし、19世紀最後の卯年である1891年にはプロコフィエフが生まれています。
そして20世紀最初の1903年はハチャトゥリアンと・・・。
この中で如何にも卯年というのはリャードフでしょうか。彼もまたグリーグに似て自分の領域を守った人のようです。ディアギレフから依頼されたバレーの話(火の鳥)を“オレには無理だ” と言ってストラヴィンスキーに譲った逸話なんぞ、リャードフは「気紛れで決断力に欠ける」タイプだったんじやなかろうかと想像してしまいます。
大物はプロコフィエフでしょうが、どうも彼は社交家、人望の厚い人、というのとは違っていたようです。むしろ正反対か。
プロコフィエフ大好き人間のラザレフがマエストロサロンで語っていたエピソードを思い出しましたね。
“プロコフィエフは最初ピアニストとして世界に打って出ようと思ったが、その道には既にラフマニノフという先輩がいた。そこで斬新な作曲で世界を驚かそうと考えたが、ストラヴィンスキーに先を越されてしまった。仕方ないのでソ連に帰国して交響曲で頂点に立とうと決断したが、ソ連には一足早くショスタコーヴィチがいた”
終始二番手に甘んじていたプロコフィエフ、やっぱり卯年生まれが災いしたのかな。
と、ここまで書いてきて思い当たることがありました。
毎月「日本の交響楽団」というテーマで各オケの定期演奏会プログラムを紹介していますが、今年1月の東京シティ・フィルは矢崎彦太郎氏がグリーグとプロコフィエフという選曲で臨みます。
当初は何でグリーグとプロコフィエフなのかなと思いましたが、もしや卯年繋がりの選曲なのでは。単なる偶然なんでしょうが、チョッと気になります。
因みに矢崎氏は1947年生まれですから、亥年。猪突猛進型ですな。
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