聖週間のフォーレ
昨日からまたコンサート3連荘が始まりました。ただし今回は聖週間、それに相応しい演目が続きます。と言っても昨日のフォーレと明日のブリテン、二つのレクイエムだけですが。
中日の今日は、「聖」とはあまり関係の無いオペラ「薔薇の騎士」ですが、声楽には違いありません。
ということで今週の3連荘は、歌手をたくさん聴くことになります。
さて昨日の聖金曜日、特にこれに因んだコンサートではあません。リニューアルされた新宿文化センターのオープンを記念し、「フランス音楽 名曲の花束」と題して行われた、日本フィルの演奏会です。内容は次のもの。
日本フィル・スプリングコンサート
ビゼー/歌劇「カルメン」前奏曲
フォーレ/レクイエム
~休憩~
サン=サーンス/交響曲第3番
指揮/広上淳一
ソプラノ/半田美和子
バリトン/成田博之
オルガン/高橋博子
合唱/東京オラトリオ研究会(合唱指揮/郡司博)
オルガンの高橋博子は、新宿文化センターの専属オルガニスト。ここのオルガンはステージ奥ではなく、舞台の右に接して据えられています。
いうまでもなく、フォーレとサン=サーンスはオルガンが大活躍しますから、オルガンの音をタップリ楽しんでもらう選曲でもあるのでしょう。
さて何と言っても広上淳一の指揮です。我が国指揮者陣も極めて層が厚くなり、大ヴェテランから新人まで、正に百花繚乱の趣があります。広上はその中では中堅、という位置付けでしょうか。今年50歳を迎えます。
聴き手はそれぞれに注目している人、一推しで薦める指揮者をお持ちでしょうが、私は断然、広上淳一をトップに据えたいですねぇ。外国人指揮者を含め、巨匠から若手までを見渡しても、このマエストロほど他に類のない音楽を紡いでくれる個性は見出せません。
この日も、「ヒロカミ」を堪能しました。もちろんサン=サーンスの第3交響曲がメイン、これが素晴らしかったことは当然でしょう。私が広上でこの曲を聴くのは三度目、N響との特別演奏会(これはCD化されています)、神奈川フィルとの定期に続くもの。作品のダイナミズムを充分に引き出しながら、交響曲としての造形に心憎いまでの配慮を施した名演。サン=サーンスについてはこれだけに止めておきます。
私がこのコンサートで最も感銘を受けたのはフォーレでした。広上でこの曲を聴くのは初体験。
ところで広上を聴く楽しみに、サプライズがあることを挙げねばなりません。毎回、と言うわけではありませんが、その確立が極めて高い。どういうことかと言うと、何度も聴いている名曲でも、広上は決してルーチン作業はやりません。スコアの読みが常に新しく、斬新・独自、“エッ、こんな作品だったのか!” というサプライズを体験させてくれるマエストロなのです。
その驚きの一つを体感したのが、ここ新宿文化センターで臨時編成アマチュアコーラスから挽き出した、ベートーヴェン第9の素晴らしさでしたっけ。
さてもフォーレ。これは特異な作品です。私も大好きで、特に録音ではたくさん聴いてきましたが、ナマでは暫く遠ざかっていたようです。この日の感想も、“エッ、こんな作品だったのか!” でしたね。
オーケストレーション。
木管楽器ではオーボエを使いません。常時鳴らされるのはファゴットだけで、フルートとクラリネットは第4曲「ピエ・イエズス」に僅かに出るだけ。
金管では、ホルンが活躍するものの、トランペットは第1曲「イントロイトゥスとキリエ」に和音の下支えとして登場するだけですし、3本のトロンボーンも第6曲「リベラ・メ」だけ。ティンパニもトロンボーンと同じです。
更に風変わりなのは弦楽器。主役であるヴァイオリンは通常の2部ではなく、1パートだけ。それも第1・2・4曲ではお休みなのです。つまり弦の主役は2部に分かれたヴィオラとチェロ、それにコントラバスという低い声部。あとはオルガンが主体で、時折ハープ。
うろ覚えですが、この日はヴァイオリン8人、ヴィオラは4人づつの8人、チェロ5人、コントラバス4人という陣容でした。他の曲とは配置を替え、ヴィオラを指揮者の前、左右に振り分け、チェロを右側に置いていました。
こうした編成から生まれるフォーレのレクイエムは、静謐、穏やか、抑制された美の世界、ということに、一般的にはなるのですが、広上がここから挽き出したのは、極めて劇的な世界。
と言っても大言壮語するドラマではなく、あくまでも室内楽的な佇まいの中に点滅する内面的なドラマ。
単に音符を音にしているだけでは、こういう表現は不可能。私が「サプライズ」と呼ぶのは、私が素人目で見ているだけの楽譜から、「音楽」を読み取り、演奏として眼前に展開してみせるホンモノの指揮者の「眼」。およそ凡百の指揮者では持ち得ない才能。
ハッ、と気付いたことの一つ。フォーレのレクイエムの形ですね。この曲では中心(第4曲)にソプラノ・ソロによる「ピエ・イエズス」が置かれています。これを対照的に挟むように、第2曲と第6曲にバリトン・ソロが登場する。このアーチ。
第5曲「アニュス・デイ」の後半、冒頭のレクイエム・エテルナムが回帰するとき、広上は合唱から極めて彫りの深い、翳の濃い音楽を創り出して行くのでした。
ソロも合唱も、広上の指導に導かれ、その意図を完璧に汲み取って、実に立派な宗教画を描いてくれました。特に半田美和子の澄んで美しいソプラノ、これは歌唱を超えて「祈り」にまで高められ、思わず落涙するほど感動的でした。
アンコールもサプライズ。賑々しいフランス名曲ではなく、フォーレの「ペレアスとメリザンド」から悲痛な「メリザンドの死」。広上の視点がフォーレに置かれていたのは、このことでも明らか。アンコールでの密やかな悲しみと劇的な慟哭が、この日のコンサートを締め括りました。「聖なる」感動の裡に・・・。
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