気賀行
これは全くの私的な日記です。読まれる方はその積りで・・・。
去年の暮れに感ずるところがあって完全リタイヤしましたが、先ず行動したいことの一つに、我が祖父・白柳秀湖の故郷、気賀を訪れることがありました。
気賀は、現在では静岡県浜松市北区細江町気賀という行政区分になっていますが、私が見聞きしていた先年までは静岡県引佐郡細江町気賀、という呼称でした。
引佐は「いなさ」と読み、気賀は「きが」が正しいようです。戦前までは「けが」と読む人もいましたが、現在は「きが」とルビが振られています。
祖父・秀湖は、現在の天竜浜名湖線・気賀駅の北、細江神社の向かい辺りにあった菓子屋の長男として生まれました。
生家は既にありませんが、場所は俗称・姫街道を挟んで細江神社の向かい、ということは聞いていましたので、兎に角そこを目指します。
秀湖が幼時から遊び場とした細江神社、その洞で遊んだと言う楠木の大木、大昔は当家先祖の墓があったという神社の裏山に一礼すること。
それが目的です。
秀湖によると、気賀は水滸伝の梁山泊に似た性格の土地柄で、南北朝の昔から必ずと言ってよいほど、住民は時流に反対の動きを示した由。
“古老が信玄の城跡を指して物語をする時にも必ず信玄様、信玄様と様付けに言います。家康のことは家康、家康と呼放しでございました”
遥かに時代を経て私が、“小澤征爾じゃなく広上淳一。N響より日フィルさ。”等と嘯いているのも、私個人が言うのじゃなく、気賀気質がさせるものなのです。
閑話休題。
静岡県ですから、通常の週末で十分往復は可能。何もリタイヤを切っ掛けにする必要はないのですが、やはり精神的な「けじめ」を必要とした、というのが正直な気持ちです。
気賀行に当たっては、隣家に住む91歳のN叔父を訪ね、行くべき場所と来歴を詳しく伺い、機が熟するのを待っていました。
なに、気候が良く、政府の経済対策の恩恵(高速道路が1000円)に与れる「潮」を見ていただけの事。連休の大渋滞が一段落したであろう先の日曜日(10日)、東名を飛ばしたのであります。
幸い往路は渋滞もなく、一度の休憩を入れて略4時間のドライブ、初めて我が血の故郷・気賀の土を踏みます。取り合えず北区役所に車を置いて目指すは細江神社。
なるほど神社には7本にも及ぶ社叢・楠木の大木が聳えています。当然ながら浜松市指定の天然記念物。現在は廻りが囲われていて、秀湖がしたように洞で遊ぶことはできませんが、往時を偲んで写真をパチリ。
この洞にまつわる大蛇と大蝙蝠の戦いの伝承を伝える看板もあります。
秀湖生家と思しき場所にある呉服屋を確認。神社北に面した裏山に一礼。その裏山に登るべく北側に回ると、話に聞いた「犬くぐり道」の筵を発見。早速に犬の姿でここをくぐります。
敷地には時節柄、通称トキワツユクサ(正しくはノハカタカラクサ)の群落があり、東京の路傍に咲く同花の3倍もあろうかという大きな白花に驚愕。(植物の名前を調べておいた甲斐あり)
続いて神社の西に隣接する「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」を覗きます。2階の展示物の中に、白柳秀湖著「山水と歴史」の一節がパネルに紹介されています。「犬くぐり道」の由来と歴史。
ここでは詳しく触れませんが、姫街道にあった気賀関所を通行する不便を解消するために、抜け道として存在した裏道。地元では黙認されていたことが日本全国でも知られていた、という来歴が紹介されているのです。
下の管理事務所に断りを入れ、パネルを写真に1枚。
このあと区役所に戻り、近くの細江図書館に設けられた文学碑の一群に秀湖の「青だたみといへば、きいただけでも涼しい気持がする」を見出し、また1枚。
続いて隣接する気賀関所の再現建物を見学したところで北山時雨。鰻屋に車を回して名物の浜名湖の鰻と鯊の天麩羅を賞味。
片道4時間の旅、日帰りでは然程余裕が無いため、もう一つの目的地である方広寺・奥山半僧坊(ほうこうじ・おくやまはんそうぼう)を目指します。
秀湖が生まれるに当たり、男子の欲しい母が奥山半僧坊に願をかけた曰くの場所。秀湖は事あるごとに“俺は奥山半僧坊の申し子だ”と言っていたということが、N叔父著「白柳秀湖伝」に掲載されています。お参りしないわけにはいきません。
さて目的は一応果たしました。家族や叔父への土産をいくつか買い込み、帰路。流石に1時間ほどの渋滞に巻き込まれましたが、5時間のドライブで無事に帰宅。喉の痞えが一つ晴れたような心持ちが致しました。
去年の暮れに感ずるところがあって完全リタイヤしましたが、先ず行動したいことの一つに、我が祖父・白柳秀湖の故郷、気賀を訪れることがありました。
気賀は、現在では静岡県浜松市北区細江町気賀という行政区分になっていますが、私が見聞きしていた先年までは静岡県引佐郡細江町気賀、という呼称でした。
引佐は「いなさ」と読み、気賀は「きが」が正しいようです。戦前までは「けが」と読む人もいましたが、現在は「きが」とルビが振られています。
祖父・秀湖は、現在の天竜浜名湖線・気賀駅の北、細江神社の向かい辺りにあった菓子屋の長男として生まれました。
生家は既にありませんが、場所は俗称・姫街道を挟んで細江神社の向かい、ということは聞いていましたので、兎に角そこを目指します。
秀湖が幼時から遊び場とした細江神社、その洞で遊んだと言う楠木の大木、大昔は当家先祖の墓があったという神社の裏山に一礼すること。
それが目的です。
秀湖によると、気賀は水滸伝の梁山泊に似た性格の土地柄で、南北朝の昔から必ずと言ってよいほど、住民は時流に反対の動きを示した由。
“古老が信玄の城跡を指して物語をする時にも必ず信玄様、信玄様と様付けに言います。家康のことは家康、家康と呼放しでございました”
遥かに時代を経て私が、“小澤征爾じゃなく広上淳一。N響より日フィルさ。”等と嘯いているのも、私個人が言うのじゃなく、気賀気質がさせるものなのです。
閑話休題。
静岡県ですから、通常の週末で十分往復は可能。何もリタイヤを切っ掛けにする必要はないのですが、やはり精神的な「けじめ」を必要とした、というのが正直な気持ちです。
気賀行に当たっては、隣家に住む91歳のN叔父を訪ね、行くべき場所と来歴を詳しく伺い、機が熟するのを待っていました。
なに、気候が良く、政府の経済対策の恩恵(高速道路が1000円)に与れる「潮」を見ていただけの事。連休の大渋滞が一段落したであろう先の日曜日(10日)、東名を飛ばしたのであります。
幸い往路は渋滞もなく、一度の休憩を入れて略4時間のドライブ、初めて我が血の故郷・気賀の土を踏みます。取り合えず北区役所に車を置いて目指すは細江神社。
なるほど神社には7本にも及ぶ社叢・楠木の大木が聳えています。当然ながら浜松市指定の天然記念物。現在は廻りが囲われていて、秀湖がしたように洞で遊ぶことはできませんが、往時を偲んで写真をパチリ。
この洞にまつわる大蛇と大蝙蝠の戦いの伝承を伝える看板もあります。
秀湖生家と思しき場所にある呉服屋を確認。神社北に面した裏山に一礼。その裏山に登るべく北側に回ると、話に聞いた「犬くぐり道」の筵を発見。早速に犬の姿でここをくぐります。
敷地には時節柄、通称トキワツユクサ(正しくはノハカタカラクサ)の群落があり、東京の路傍に咲く同花の3倍もあろうかという大きな白花に驚愕。(植物の名前を調べておいた甲斐あり)
続いて神社の西に隣接する「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」を覗きます。2階の展示物の中に、白柳秀湖著「山水と歴史」の一節がパネルに紹介されています。「犬くぐり道」の由来と歴史。
ここでは詳しく触れませんが、姫街道にあった気賀関所を通行する不便を解消するために、抜け道として存在した裏道。地元では黙認されていたことが日本全国でも知られていた、という来歴が紹介されているのです。
下の管理事務所に断りを入れ、パネルを写真に1枚。
このあと区役所に戻り、近くの細江図書館に設けられた文学碑の一群に秀湖の「青だたみといへば、きいただけでも涼しい気持がする」を見出し、また1枚。
続いて隣接する気賀関所の再現建物を見学したところで北山時雨。鰻屋に車を回して名物の浜名湖の鰻と鯊の天麩羅を賞味。
片道4時間の旅、日帰りでは然程余裕が無いため、もう一つの目的地である方広寺・奥山半僧坊(ほうこうじ・おくやまはんそうぼう)を目指します。
秀湖が生まれるに当たり、男子の欲しい母が奥山半僧坊に願をかけた曰くの場所。秀湖は事あるごとに“俺は奥山半僧坊の申し子だ”と言っていたということが、N叔父著「白柳秀湖伝」に掲載されています。お参りしないわけにはいきません。
さて目的は一応果たしました。家族や叔父への土産をいくつか買い込み、帰路。流石に1時間ほどの渋滞に巻き込まれましたが、5時間のドライブで無事に帰宅。喉の痞えが一つ晴れたような心持ちが致しました。
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