びわ湖のツェムリンスキー

11月25日(日)、びわ湖ホールのオペラ公演を聴いてきました。ここは全く初めてなので、見るもの聴くもの皆珍しいという感じです。
京都からJRで大津に行き、バスでホールまで、というのが普通のルートでしょう。我々は観光も兼ねていましたので、早朝に東京を発って坂本まで行き、日吉神社の紅葉を楽しんでから京阪線で石場まで、ホールは徒歩3分です。

ホールは琵琶湖に面していて、ホワイエから湖が見渡せます。立地はともかく、雰囲気は良いですねぇ。ホールは大中小と三つあり、客席は夫々1848、804、323とのこと。オペラは勿論大ホールで演奏されます。
今年の秋からびわ湖ホールの芸術監督に就任した沼尻竜典がテーマにする、「沼尻竜典オペラセレクション」の第1回として取り上げたのが、ツェムリンスキーの歌劇「こびと~王女様の誕生日」全1幕です。

1幕ものをどう構成するのかな、と思っていましたら、2部構成。第1部は俳優の内田紳一郎がオスカー・ワイルド役として登場し、歌劇「こびと」へのイントロダクションが置かれていました。途中から沼尻もツェムリンスキー役として加わり、ピアノを弾きながらオペラの成り立ちを解きほぐしていくのです。
普段とは違い、至極謹厳実直なマエストロ。“ここは笑うところではありません”とか、“ミシュラン・ガイドのオペラ版があれば、こびとは間違いなく三ツ星”などと昨今の話題を織り交ぜ、客席をリラックスさせることに務めています。

ツェムリンスキーはまだまだ馴染みのない作曲家。今回のこびとは沼尻自身が東フィルで演奏会形式による日本初演を果たしていますが、舞台上演は今回が日本初演。そのせいでチケットの売れ行きは今一つ、客席も満杯にはなっていません。4階までありますが、見た目8割5分くらいの感じ。
客席のトークをそれとなく聞いていると、東京から駆けつけている聴衆も少なからずいるようで、見知った顔もチラホラしています。
イントロダクションのあと休憩が入り、本編が始まります。

今回の演出は加藤直(かとう・ただし)、オーケストラが京都市交響楽団。
歌手は主役クラスが4人。タイトルロールのこびとが福井敬、スペインの王女ドンナ・クラーラは吉原圭子、侍女ギータに高橋薫子、侍従長ドン・エストバンが大澤建という面々です。
「こびと」は私も全くの初体験、レコードも聴いたことはなく、楽譜も知りません。ですからオペラとしての出来について何か言う資格はありません。

その上で、これは面白かった。特に福井のこびとは迫真の歌唱。圧倒されます。特に誤って鏡を見、己の姿の醜さに絶叫する辺りからは、聴衆をグイと惹きこんで離しません。声量もいつも以上に立派、私共の席(1階10列目のほぼ中央)ではオーケストラを貫いて耳鳴りがするほど響いていました。この日一日限りの公演ということで、全力を出し切ったのでしょう。
演奏会形式でも歌った高橋/ギータが、安定して素晴らしい舞台でした。王女の吉原はやや性格的に中途半端な印象が残りましたが、上演の印象を弱めるものではありません。これは後述する演出のコンセプトとも係わっているのかも知れませんね。王女の設定は、18歳なのですから(魔笛のパパゲーナと同じ歳)。

何と言っても功労者は沼尻でしょう。最初から指揮棒を使わず、知り尽くしたスコアからダイナミックな音楽を引き出す力演。オーケストラにもう少し緻密なアンサンブルと多彩な音色があれば、更に良かったのでしょうが・・・。
この公演、東京でやってくれればチケットは完売したんじゃないでしょうかね。何とも勿体無いことです。

演出は大人しいもの。中央に鳥篭を連想させるような格子が置かれ、これを時に応じて回転させます。重要な意味を持つ鏡は、本物の鏡ではなく、枠だけの装置を使って、こびとが如何にも鏡に映る自分に語りかけるように演技します。
カーテンコールで気が付いたのですが、この演出では全てが「玩具」の世界というコンセプトで作られているようで、残酷な御伽噺の世界を描こうとしていたようです。

プログラムに載ったエッセイ、藤野一夫氏の「ワーグナーからツェムリンスキーへ-『指輪』の陰画としての『こびと』-」は読み応えがありました。へぇ~、そういう解釈もあるのかぁ~。
ただし今回の演出は、これとは異なった解釈と感じてしまいましたが・・・。

いずれにしてもツェムリンスキーのオペラ、とても面白い。「こびと」にも様々な表現・解釈が可能でしょう。こういう舞台を見ると、8曲あるツェムリンスキーのオペラも全部見てみたいという好奇心が涌いてきました。
音楽史は、ワーグナーからいきなり無調のシェーンベルクに移行したわけではなく、マーラー、シュレーカー、ツェムリンスキー、リヒャルト・シュトラウス、コルンゴルトなどという「間」を埋めている優れた作品がまだまだ知られずに放置されている。
沼尻はここに光を当て、後期ロマン派の世界をより豊かに紹介していくことに尽力しているのです。ブルックナーとマーラーの間にハンス・ロットを見出したように。
この面での彼の活動・尽力をいくら称えても、褒め過ぎということにはならないでしょう。

第1部イントロダクションの最後で「オスカー・ワイルド氏」が、“悲劇には二つある。一つは欲しいものが手に入らない悲劇。もう一つは欲しいものが手に入ってしまった悲劇。後者の方がより残酷だ。”と宣言していましたね。
このオペラは、“真実を知らない悲劇と、真実を知ってしまった悲劇があり、真実を知ってしまうことは、知らずにいることより遥かに残酷”と諭しているようでもありました。
ツェムリンスキーの歌劇「こびと」の舞台上演による日本初演。見なかった人の悲劇よりも、見てしまった人の悲劇のほうが遥かに深刻かも・・・。

 

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