日本フィル第586回定期演奏会

日本フィルの12月定期です。このシーズンは日本フィルにとって創立50周年にあたり、東京定期もそれを記念する意味合いがあります。
オーケストラと縁浅からぬ指揮者たちを招き、その得意なレパートリーを披露する。一見すると名曲コンサートのような趣もありますが、原則として登場するマエストロには東京定期一本、即ち一つのプログラムに全力を傾けてもらう、という趣向もあるのです。

12月定期は広上淳一の指揮。広上氏と日本フィルとの関係は極めて長く、また深く、記念シーズンに相応しい人選でもあります。前任の正指揮者ですが、事実上このマエストロを発見し、掌に入れて暖め育ててきたのは他ならぬ日本フィルです。マエストロはこのオーケストラから多くを学び、自身が海外活動で得た叡智を、全て日本フィルに還元してきたのです。
肩書きこそ外れていますが、広上=日本フィルは切っても切れない信頼で結ばれているのですね。
その広上が記念シーズンで取り上げたのはハイドンのオラトリオ「四季」。得意曲、というのとは別な意味で、渾身の選択です。

日本フィルにとって「四季」は特別な意味を持つ作品です。前回これを演奏したのは、1988年4月22日の定期、渡邉暁雄氏の指揮、佐藤しのぶ、佐々木正利、勝部太、東京アカデミー合唱団という陣容でした。
そして何よりも、これは日本フィルの第400回を記念する定期演奏会としての公演でした。

広上氏にとって「四季」は今回が初体験です。同じハイドンの「天地創造」は、正指揮者時代の日本フィルで演奏したほか、N響に客演した際にも取り上げており、いわば得意曲でしょう。
しかし「四季」は、ハイドンとしても更なる円熟を遂げ、その生涯の頂点で書き下ろした最高傑作です。容易に凡なる指揮者の手におえる作品ではありません。
渡邉氏が取り上げたのは69歳の時、心身とも円熟期にあった頃でした。

マエストロサロンでも告白していた通り、広上氏にとって今回は“指揮させていただく”という心境であり、自分のような若輩が指揮できるような作品ではない、という自覚がありました。
しかし彼も既に若手ではない、かといって老人でもないけれど、漸く自分の進むべき先が見えてきた年代です。この時期で一度チャレンジしたい、というのがマエストロの意気込みでした。手兵コロンバス響でも来年3月に取り上げますが、そのあとは60歳を超えてからの再チャレンジになるようです。

その意味もあって、今回私は木曜と金曜、二回に亘ってこのオラトリオを体験してきました。
私自身の体験についていえば、初めて聴いたのは放送、シュヒター指揮のN響でした。これは定期ではなく、何かの記念演奏会だったと記憶します。
ナマでは同じくN響でスイトナーの指揮、これも特別演奏会でした。
しかし両度の演奏でも、聴き手の自分にとっても難しい作品で、正しく理解できたとは言い難いものがありました。

今回は実に素晴らしい体験でした。指揮がどう、歌手がどう、合唱がどう、というような個別のレヴェルではなく、演奏者たちが誠心誠意この大作に挑み、かつ楽しんで演奏していることが痛いほどに感じられます。稀有な体験です。
バスの高橋啓三さんは農民の父親になり切っていましたし、ソプラノの野田ヒロ子さん、初々しい娘の役を嬉々として演じていました。そしてテノールの福井敬さんも凛々しく、高貴な歌い回しで聴衆を魅了します、いつもの通り。
東京音楽大学の若々しい合唱が、作品の「新時代を予見させる」音楽にこれほど相応しく響いた例があったでしょうか。

マエストロは初挑戦とは思えないほど、スコアを深く読んでおり、ハイドンの作品に籠めたメッセージを出来得る限りの力で表現して見せます。
聴衆は、この名演に圧倒されつつも、ハイドンの飾らぬ言葉を楽しみ、かつ深々と味わうのでした。
作品のポイントを・・・。

これは基本的には教訓詩です。春夏秋冬に啓蒙時代の前向きな思想が託されている。
春。これは復活の季節。創造主を敬い、称え、賛美するのです。
夏。太陽への賛歌。大自然が太陽に歓呼の声を上げ、人間もまた自然の一員であり、その恵みを受けるのです。
秋。自然は勤勉に対して報います。勤勉こそが、心に美徳を注ぎ込んで粗野な振る舞いを和らげ、悪徳を寄せ付けず人の心を清らかにし、勇気と思慮を促し善なるものと義務へ導くのです。
冬。人は死に至り高潔な徳のみが残ります。高潔な徳のみが止まって我らを導きます。どこへ? 天国の御門へ。そこに至ることが出来る人は、悪しきを避け善を成した人、唇から真実を流した人、貧しく悩める人々を助けた人、汚れの無い人に保護と権利を与えた人だけなのです。

こうした教訓は決して仰々しく語られるのではなく、ハイドンによって楽しく快活に伝えられていきます。
それにしても何と言う音楽、何と言うオーケストレーション。
ベートーヴェンも、シューベルトも、ウェーバーも、ベルリオーズも、ワーグナーも、マーラーも、そしてヤナーチェックまでもが「四季」に創造の源をおうているのです。

最後に技術的なこと。
この演奏では必ずしも楽譜の指示に拘っていませんでした。
レシタティーヴォは当時の発展の段階を反映するようにピアノが指示されていますが、今回はチェンバロ(小池ちとせさん)。
いくつか使われる打楽器のうち、タンバリンではなく大太鼓が使われていました。
第13番のカヴァティーナ、暑さで生気を失った自然を表現するように終始弱音器つきの弦が伴奏します。スコアには最後の後奏2小節で弱音器を外すように書かれていますが、今回は最後まで弱音器つきで通しました。技術的な処置でしょう。

その他、カットは一切行っていません。演奏時間は2時間半を越え、両日とも終演は10時10分前でした。
しかし長さを感じた瞬間はただの一刻もありませんでした。そればかりか、余韻が消え去ったあとも暫くは、その感動を抑えつつ名残を惜しんだのです。

 

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