エルガーと競馬

今日はいろいろ書くことがあっていかん。

昨日日本フィルの定期に出掛けてプログラムを開くと、エルガーについての解説。
「エルガーはいつも服装はきちっと決め、口には立派なヒゲをたくわえ、狩り、ゴルフ、クリケットや競馬を愛する、まさに典型的なイギリス人だった」とある。
へ~ェ、エルガーって競馬好きだったのか。

同時進行の話。
エルガーのヴァイオリン協奏曲を調べているのだけれど、肝心のメニューイン/エルガー盤がない。そこで急遽CD屋によって Great Recordings of the Century の一品をゲット。早速ブックレットを開く。マイケル・ケネディーの執筆。

「1932年7月12日、メニューインとエルガーは初めて会う。アイヴァー・ニュートンのピアノで協奏曲を通して弾いた。エルガーは椅子に深々と腰を下ろし、瞑想して聴き惚れた。メニューインの演奏に心を動かされたのは明らかだった。それから昼食に誘われたのだが、ニューマーケットに競馬観戦に行くためという理由で申し出を断った」とある。

これは聞き捨て、いや読み捨てならん。

この時期ならニューマーケット競馬場はジュライ・ミーティング(7月開催)の最中、嘘じゃなかろう。

エルガーが亡くなったのは1934年。そうだ、と思い立って1934年版の競馬年鑑を引っ張り出してきた。もちろんイギリスの出版物。

探してみると、あったあった。
この年鑑には、その年死亡した競馬人に関する死亡広告が掲載されている。その冒頭。

「この交響曲、オラトリオ、協奏曲の大作曲家に関するメモアールが競馬関係の書物に掲載されるのを奇妙に思われる向きがあるかもしれない。しかし3月に亡くなったエルガーが、競馬の熱心な愛好家であったことをここに記しておきたい。」以下延々、2ページに亘って競馬界でのエルガーの逸話が書かれています。

「13歳のエルガーがウースター競馬場で6シリングの馬券を的中させた。しかし彼はその当り馬券を盗まれてしまったのだ。エルガーが賭け屋に来て訳を話すと、その賭け屋は、当り馬券の番号を正確に覚えていたら配当金を支払ってやろう、と約束した。サー・エドワードは即座にその番号を正確に復唱し、見事に6シリングを懐に入れた」。
このとき賭け屋曰く、“何て素敵なヤツだ。今に世界で天下を取るぞ”。

13歳の子供が馬券を買えるのか? 日本なら犯罪じゃないか、などと言ってはいけません。
ジェントルマンの国、そもそも競馬は貴族のスポーツですぞ。ギャンブルは青少年の情操教育上・・・、などと決めつけているどこぞの野暮な国のお役人には、こういうユーモアは理解の外です。

1933年5月31日、エルガーは生涯で唯一の機会となった飛行機旅行でパリを訪問し、メニューインとヴァイオリン協奏曲を共演します。正にこの日、イギリスはダービーの当日だったのです。
エルガーはダービーがロンシャン(パリ最大の競馬場)で開催されなかったことを悔やんだという話です。

そしてこのダービーを征したのは、彼の名馬ハイペリオン Hyperion です。(Hyperion は競馬の世界ではヒュペリオンとは呼ばず、ハイペリオンで通っています)
エルガーにとっては観戦できた筈の最後のダービーであり、ハイペリオンの勇姿を見損なってしまったのです。自分のヴァイオリン協奏曲のために。

賜紀さん、ジェームス、これ知ってました?

驚きましたねぇ。
それにしても1934年のイギリス競馬年鑑が手元にあるという不思議。自分がまだ生まれてもいない時代の一物。

競馬好きの諸君よ、こういうオッソロしい資料が約1冊、日本にも存在するのですぞ。

競馬から見たエルガー、というのも実に興味をそそられるテーマですなぁ。まだまだ調べることが出てきそうです。薄給のために仕事なんぞに行っている暇はないぞ。

それにしてもエルガー、ますます好きになっちゃいますね。

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