第671回・日本フィル東京定期演奏会
6月の首都圏クラシック音楽界は、個人的な感想かも知れませんが、毎年重要な演奏会が目白押し。サントリーホールがある赤坂界隈は正にその震源地でもあります。昨日の金曜日、大ホールでは日本フィルの6月定期が行われました。
先週横浜でも本場ロシアもので会場を沸かせた首席指揮者ラザレフ、東京定期は就任以来続けている「ラザレフが刻むロシアの魂≪Season Ⅲショスタコーヴィチ≫」の3回目。来季から顧問に就任するマエストロにとって、首席指揮者という肩書では最後の定期ともなります。次のプログラム。
ブルッフ/ヴァイオリン協奏曲
~休憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第8番
指揮/アレクサンドル・ラザレフ
ヴァイオリン/堀米ゆず子
コンサートマスター/扇谷泰朋
フォアシュピーラー/九鬼明子
ソロ・チェロ/菊地知也
6時20分が会場の日フィル、未だ明るいホールに向かうと、入り口正面でクァルテット・エクセルシオのメンバーと遭遇。実は今、同ホールのブルーローズではチェンバーミュージック・ガーデン開催の真っ最中で、サントリーホール室内楽アカデミーのコーチング・ファカルティを務めるエクも連日の様に赤坂に通っているのでしょう。
私も今年のベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏を通し券で通い、ミロ・クァルテットに打ちのめされている最中。ブログに演奏会レポートが出ないじゃないかと指摘されましたが、それは全曲マラソンが終了してから纏めてアップしようと考えています。前日の木曜日にはラズモフスキーの全曲、今日土曜日には第3回の演奏会があり、個人的には3日連続のサントリーホールでもありました。
ということでエクの3人とも連日の挨拶、“今日は大ホールなんですよ、堀米さんが楽しみ。メインはショスタコーヴィチの8番、モーツァルトのトルコ行進曲が出てくる奴ですね。明日はまたミロに来ますから、また”てなことで大ホールに入りました。
前日のラズモ全曲では、隣の大ホールではテミルカーノフ/読響が同じショスタコーヴィチの第10交響曲を演奏していたはず。オケよりは遥かに時間オーバーとなったブルーローズでした。今日はラザレフの2日目が大ホールであり、テミルカーノフは池袋で10番の2日目がある筈ですから、東京はショスタコ祭りでもあります。好きな人はどちらに行くか迷いながらコンサート通いを続けているんでしょう。梯子などという猛者もいるに違いありません。ショスタコーヴィチとベートーヴェンの連荘なんて気違い沙汰ではありますな。
さて今回の定期。前半も後半も期待に違わぬ名演の2連発。真に贅沢な夜ではありました。
今やブリュッセルの名物教授でもある堀米ゆず子。その小柄な体格以上に堂々たるブルッフを聴かせてくれました。協奏曲だからと言って容赦しないラザレフのバックですが、それもタジタジとなるほどドスの効いたヴァイオリンの音色は大音響を突き抜け、聴き手の腸にグイと食い込む手応え。
時に笑みを浮かべ、管弦楽の全総に身を任せながらもソロを主張し、一歩も譲らない実に交響的なヴァイオリン協奏曲で満場を沸かせました。一言で表現すれば、女王の風格。
サラッと始めたアンコールは、バッハの無伴奏ソナタ第3番のラルゴ。協奏曲とは違って弓を半分ほどしか使わず、もちろん現代楽器とモダン・ボウながらもバロック・ボウで弾いているかの印象的。流石に古楽の聖地ベルギーで活躍している教授ならではのバッハに改めて感服です。
後半はショスタコーヴィチの大作中の大作。初演後の批判があったこともあり、中々一般には受け入れられなかった傑作ですが、ラザレフの説得力溢れる力演に退屈の言葉無し。次から次へと繰り出されるショスタコーヴィチ語法に魅了されていく自分を見出すことが出来ました。
全5楽章で、最後の3つの楽章はアタッカで続けられるという点は、先日テミルカーノフ/読響定期で聴いたばかりのマーラーに通ずるもの。ショスタコーヴィチの意識下にマーラーがいたことを改めて認識します。
それにしてもアーチ型ソナタ形式の第1楽章は長い、そして凄い。展開部、アレグロ・ノン・トロッポの後半で登場する金管楽器のマーチは、良く聴けばモーツァルトの「トルコ行進曲」の引用。これが何を意味するのか、ショスタコーヴィチ自身は黙して語りません。
ラザレフがこれまで紹介した第4交響曲にはカルメン、魔笛、蝶々夫人が顔を出す。ラザレフのショスタコーヴィチ・シリーズには登場しない第10番には大地の歌、第5番にもカルメンが出てきますが、どれもショスタコーヴィチによって大幅にデフォルメされたもの。言われなければ気付かないショスタコーヴィチ節に変容しています。これもまたショスタコーヴィチ作品の醍醐味、謎解きの誘惑に駆られる瞬間でしょう。
この誘惑に堪えているうち、音楽は再現部の轟音に突入。思わず仰け反るような強烈な打楽器の連打がハタと止むと、コール・アングレの長い独白が始まります。構成的には主題が逆行しながら再現して行くということでしょうが、ラザレフ入魂の pp に乗って、音楽はその長さ(第1楽章だけで25分!)を忘れるフェルマータ終止を迎えるのでした。
5部形式の第2楽章は、スケルツォとトリオが反復しながらも最後は同時に演奏される荒業。ピッコロのソロが耳を刺激します。
4分音符が絶えず奏されるトッカータ風の第3楽章は、時々爆弾投下の戦争シーン。ギャロップのリズムはナチの進撃でありながら、実はスターリンの脅威。作曲家と民衆は「死の舞踏」を踊り続けるしかありません。
そしてアタッカで続くパッサカリアの第4楽章。ショスタコーヴィチのパッサカリは常に「死」を意味し、11回の変奏が戦争の犠牲者を悼みます。しかし死は戦争によるものだけか? 大きな疑問符を突き付けるラルゴ。
音楽が突然ハ長調に替り、ファゴットがパストラーレを吹き始めるのが第5楽章フィナーレ。全曲の中でも最も謎に満ちた楽章を、私は未だ完全には理解できていません。
2つのエピソードを挟んで3拍子のフーガが始まり、再び音楽は第1楽章序奏の回帰へ。しかし今回は強烈な打楽器を伴うカタストロフに向かい、このまま終結と思いきや、音楽は最後の回想。ヴァイオリンのソロが来るべき未来への夢を語って行く様な平和の裡に、恰もチャイコフスキーの悲愴交響曲のように、低弦のピチカートが全曲を締め括ります。
予想してはいましたが、ラザレフは最後まで両手の震えを止めず、響きが完全に沈黙してからもなお1分以上でしたか、永遠に続くのではないかと思われる静寂の中に祈りを捧げます。何と言う終結部。前作第7交響曲と同じハ長調の終始ながら、全く性格の異なる音楽にショスタコーヴィチの天才が潜んでいるようでした。
演奏会はこれで終わらず、未だ正装も解かないマエストロが通訳の小賀明子氏を伴って再登場、アフタートークに移ります。ショスタコーヴィチ・シリーズの残り3曲、第9、第6、第15番に付いて熱く語るマエストロの心情は、聴き手を少しでもショスタコーヴィチに近付けようという熱い想いに溢れたもの。
全ての演奏会が終わったのは午後9時半。前日とは逆に、ブルーロズより遥かに遅れてお開きとなった大ホールでした。
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