読売日交響・第565回定期演奏会

先月、11月の読響定期は体調が悪く、指揮者も苦手なタイプだったのでパス。10月以来の定期をサントリーホールで聴いてきました。これが真に風変わりな演奏会で、どう書いて良いか判りません。
協奏曲が最後という演目からして、何かあるな、ということが想像できます。

ムソルグスキー(ショスタコーヴィチ編)/歌劇「ホヴァンシチナ」ペルシャの女奴隷たちの踊り
ボロディン/交響曲第2番
     ~休憩~
ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番
 指揮/オレグ・カエターニ
 ピアノ/イーヴォ・ポゴレリッチ
 コンサートマスター/小森谷巧

協奏曲がトリというコンサートは読響では何度か経験していて、小生が未だ学生だった遥か昔にアンドレ・ヴァンデルノートが客演した時には前半がブラームスの第1交響曲、後半は同じブラームスの第2ピアノ協奏曲という回がありました。
その時のソロはアルトゥール・ルービンシュタインで、協奏曲が終わった後はアンコールに次ぐ、アンコール。定期演奏会は完全にルビンシュタインのリサイタルになってしまったことを思い出します。あの夜は多分指揮者が一番先に帰っちゃったんじゃないでしょうか。

その後も私は実際には聴けませんでしたが、チャイコフスキーの第4交響曲のあとでヴァイオリン協奏曲という定期もあり、指揮者は誰だったか忘れましたが、ソロは彼のイツァーク・パールマンでした。
さる事情通によると、超有名なソリストが出て前半に名人芸を披露すると後半はお客さんが帰ってしまうので、そういう聴き手を最後まで繋ぎ止めるために最後に協奏曲を置くのだとか。そう言われれば思い当たる節も何度かありましたっけ。
ということで昔は良くあったプログラム、今回のソロは奇人で知られるポゴレリッチでしたから止むを得ないか。それにしても奇才というレッテルに相応しいピアニストでした。

開場してホールに入ると、舞台下手奥にスタンバイされているピアノがポロン・ポロンと鳴っています。見ると、何と私服姿のポゴレリッチがサラっているではありませんか。
目敏く見付けたファンと思われる人達が舞台下に駆け付け、食い入るように見入っている。その光景は予鈴のベルが鳴るまで続き、係員に促されるようにポゴレリッチは舞台裏に引き上げます。こんな風景、私は初めて目撃しました。

そんな中、楽員が登場してチューニング、いつものようにコンサートが始まります。
どこか尋常でない雰囲気の中で始まりましたが、先ずは前半を見事に指揮したカエターニから始めましょう。私は以前から気になっていた名前ですが、ご存知イーゴリ・マルケヴィッチの息子。マルケヴィッチは私がナマで聴いた最初の大指揮者で、その衝撃は未だに耳に焼き付いています。
カエターニが何故マルケヴィッチ姓を名乗らないかは知りませんが、後妻に当たるカエターニ家も大変な名家で、祖先は13世紀のローマ教皇に繋がるとのこと。カエターニ姓の方が仕事上やり易いのかも。

http://www.olegcaetani.com/

そのカエターニ、都響には何度か客演しているようですが、私が知っている限りでは読響は初登場じゃないでしょうか。それにしても振るのは定期1回のみで、第9は別の指揮者に委ねられます。何ともモッタイナイとしか言いようがありません。
初めて見たカエターニ、写真で見る以上に父親似であることに吃驚。もちろん意識しているわけではないでしょうが、歩き方からしてソックリです。そしてあの貴族的な風貌、時々見せるプルフィール(横顔)はマルケヴィッチが生き返ったのかと錯覚するほどの激似。
違っている点を挙げると、父親より大柄であること。指揮棒が対照的に短いこと。指揮台にスコアを置いて指揮すること(マルケヴィッチは自作以外は暗譜でした)、笑顔があること(父はどんなに喝采を受けてもニコリともしませんでした)などでしょうか。ボロディンの第1楽章の最後で、両手を垂直に振り下ろす仕草などは完全に父親譲りです。

イングリッシュ・ホルンのソロで始まるムソルグスキー。いつもとは全く違う読響サウンドも驚きで、その艶っぽい音色はカンブルランが如何に足掻いても出てこない性質のもの。たった一度のコンサートでオーケストラからガラッと違う音を引き出すカエターニは、やはり只物じゃありません。
ショスタコーヴィチのオーケストレーションがリムスキー=コルサコフ以上に華やかだということもありましょうが、読響からこれ程ヨーロッパ的な響きを聴いたのは初めてでした。圧巻のボロディンが終わって、思わず“今日はこれで帰ってもいい”と口走ったほど。

満席の客席が固唾を吞んで見守る後半。ピアノがセッティングされますが、譜面台が立てられ、ピアノの前に椅子が2脚。ということは譜捲りが座るということでしょう。曲目を確認しましょう、ラフマニノフの第2協奏曲。そう、第1でも第4でもありません。
エッ、ラフマの2番を楽譜を見ながら弾くのか!!!

徐に登場し、勿体振りながらラフマニノフのコードを独特のニュアンスで弾き始めたポゴレリッチ、私には感想を書き様もありません。要するに解らないのです。これが鍵盤上のヴィルトゥオーソなら、私にピアノを聴く資格はありませんし、ピアノ音楽には係わりたくありません。
確かに一音一音の素晴らしさは格別だし、強靭さを含めてそのピアニズムには圧倒されます。しかしその音楽は・・・。
ポゴレリッチのラフマニノフは、私がこれまで聴いてきたこととは全てが逆でした。帰ってからラフマニノフ自身の演奏を聴き直してみましたが、やはり作曲者とは180度違う表現。

例を三つだけ挙げさせて下さい。
①第2楽章、テーマがピアノに登場する箇所。ラフマニノフが記したエスプレッシーヴォは、「ぶっきらぼうに」。
②第3楽章、練習番号32から、ピアノが3連音符を下降する個所。ラフマニノフが記したメノ・モッソは、「素早く、一気に駆け抜けて」。
③第3楽章、有名な第2主題がピアノで弾かれる個所。ラフマニノフが記したドルチェは、「皮肉を込めて、甘さを排し」。

客先の熱狂は凄まじく、ポゴレリッチは最初から最後まで楽譜を抱えたままでのカーテン・コール。遂には譜捲り嬢を呼び寄せてアンコール。ソリストに替わってカエターニが客席に、“第2楽章をもう一度”。
このピアニストに惑わされず付けた読響は見事。恐らくカエターニだからこそ共演できたのじゃないでしょうか。

オケの楽員が一斉に立ち上がって漸く喝采が止み、ホワイエに出ると楽壇事情にも精通された大先輩のY夫人に遭遇。旧交の挨拶をし、

先輩 “面白かったわねぇ~”
私  “私はこのピアニストはダメで。あっ、指揮者は素晴らしかったですよ”
先輩 “ポゴレリッチとカエターニは若い頃、同じ部屋で暮らしてたんですって”
私  “あっ、それで。今度は単独で来てもらいたいですね”
先輩 “いつも一人で来てリサイタルやってますよ”
私  “いえ、指揮者の方です”
先輩 “あ、指揮者ね。私は待ち合わせがありますので、これで・・・”

ということで話は全く噛み合いませんでした。

結論。私にはピアノは判りません。今後もピアノ・リサイタルという領域には踏み込まないことにします。

 

 

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