第97回マエストロ・サロン

日本フィルの企画「マエストロ・サロン」も気が付けば10年目に突入、間もなく100回目を迎えようとしています。正に一回一回の積み重ね、サロンがスタートしたのを昨日のことのように覚えていますから、私も東京国際フォーラムに10年間通ったことになります。
昨日は10月の日本フィル定期を振る尾高忠明の巻。マエストロも今やサロンの常連になりました。
内容は日本フィル・ホームページに譲るとして、昨日の近況報告は2点。一つは先月の札響定期におけるピーター・グライムズ、もう一点が新国立劇場とのゴタゴタに関する明快な顛末報告でした。
後者を聞いて強く思うことがありましたので、そのことを。
物事には「潮目」が付いて回りますが、昨日の話題も私のこの所の関心事にピタリと符合するものでありました。
月曜日の日記でも少し触れましたが、尾高家と、日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一とは親戚関係にあります。
その辺の事情を白柳秀湖著「左傾児とその父」(昭和8年・千倉書房)から引用しましょう。
渋沢翁は日本を代表する偉人の一人ですが、秀湖によれば本当に偉かったのは栄一の父・渋沢晩香なのだそうです。晩香の偉大さがどこにあったか、興味がある方は上記書物を古書店か国会図書館で探して読んでみて下さいな。
渋沢家と尾高家は古くから姻戚関係にあり、後にも何度か婚姻関係を結ぶことによってなお強い絆で結ばれていきます。関係のある個所をごく簡略に抜き出すと、
晩香(本名は元助)の姉・やへ、この人が尾高勝五郎に嫁して生まれた兄弟の一人に尾高新五郎がいました。従って栄一と新五郎は従兄弟に当ります。
栄一は新五郎から様々な影響を受けて育ち、左傾と右傾の大波に揺られていきますが、それはここでは触れません。
更に付け加えれば、渋沢栄一は、尾高勝五郎の三女・千代(新五郎の妹)を娶って夫人とします。
この新五郎の子・次郎の子が、N響の指揮者であり作曲家でもあった尾高尚忠。マエストロ・サロンに登場された忠明氏は、従って5代遡れば渋沢栄一と同じ祖先に行き当たるのですね。
渋沢宗助→渋沢晩香→渋沢栄一
渋沢宗助→尾高やへ→尾高新五郎→尾高次郎→尾高尚忠→尾高忠明
渋沢栄一が勲一等を叙勲した翌年、昭和4年に御所に召し出されて帝から御下問があったときの話題。
翁は極左から極右と波乱の生涯を送りましたが、その間切々と感じていたことは、「官尊民卑」の弊風。渋沢栄一が常に抱いてきた、即ち晩香から受け継いだ「反抗の精神」を昭和天皇に述懐された由。
昨日のマエストロ・尾高忠明氏の新国立劇場との経緯は、正に栄一翁の精神と同じ根っ子から出たものでしょう。最近の言葉で言えば、同じDNAを持っている。
こういう資質は若い頃には表面には出てきませんが、齢を重ね、世間に揉まれてくると自ずから頭を擡げて来るもの。
私は、氏のユーモアで包んだ話の中に「反抗の精神」を見て取った気持が致しました。
時は明治維新から指折り数えれば140年。いや江戸時代から積算すれば何百年という時を経ても、未だに「官尊民卑」の弊風は存在します。
尾高忠明氏に流れる渋沢家のDNAが新国を動かすことが出来るか・・・。

 

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