食い倒れ抜きの難波旅
私の旅は音楽会の合間を縫う、序で旅。今回は大阪シンフォニカー交響楽団の定期演奏会を聴く序での旅であります。
コンサートは午後7時開演ですから、それまでに大阪に着けばよろしい。例に拠って旅程等々は全て家内任せの気楽なもの。パック割引で滅茶苦茶に廉い旅券で、出発は7日(金)の午後1時頃品川発。
東京は抜けるような青空で、丁度日吉辺りを通過した時には、青赤青の慶応カラーの気球が揚がっていました。今年は慶応義塾創立150周年、それを記念した式典が翌日行われる由。
次第に西下、天気は次第に悪くなり、京都は雨。大阪も似たようなもの。雨が降ったり止んだりで、取り敢えず新大阪から大阪環状線に乗り換えて福島へ。
ザ・シンフォニーホールは初めてなので、場所を確認するためにホールへ向かいます。
駅の案内に従って北に真っ直ぐ進めば、左手に緑の塊が見えます。この公園の奥に位置しているのがザ・シンフォニーホールで、道に迷うこともなく無事到着。
私は大阪にはほとんど縁がなく、昔の勤め先で支社の棚卸し業務の立会いに何度か出張しただけ。その時も宿と事務所の行き返りだけで、見物などは一切しませんでした。だから何処をどう歩いたか、全く記憶にない。
そういうことだから大阪の印象も良くない。いや、良くないのじゃなく、何も残っていない、というのが正しい。
演奏会は6時開場、7時開演というのでまだまだ時間に余裕あり。ホールには当日券を求める人がチラホラ並んでいるだけ。原則を破って、コンサート前に食事を摂ることに決めました。ホール側の中華料理店。タンタンメンがお勧め、というのでそれを注文。
コンサートに付いては別記。
この日の宿は近鉄線の上本町(うえほんまち)なので、福島から環状線で大阪に戻り、地下鉄御堂筋線を捕まえてなんばへ。ここで近鉄に乗り換え、二つ目が目的地。ホテルにチェックインしたのは夜10時少し前でありました。
翌朝の汽車で帰京、といきたい所ですが、パック旅行の絡みで大阪発は午後2時。それまでどうして過ごそうか。
おまけに8日は朝から雨。昼ごろには止むという予報が出ているけれど、午前中の暇つぶしは雨の中。適当に近所を探索、ということでチェックアウト。
上本町近くの名所旧跡案内を見ていたら、井原西鶴と近松門左衛門の墓所があるそうな。歩いて僅かな距離らしいので、そこに行って見ましょうか。
ホテルの前の通りを真っ直ぐ北上、誓願寺の境内に、井原西鶴の墓はありました。入り口で犬に吼えられただけ。訪れる人は誰も無く、凡そ観光名所には程遠い佇まいでした。
西鶴墓所のブロックをぐるっと谷町の方向に回った所に近松門左衛門の墓があるらしい。
雨の中をとぼとぼ歩き、日蓮宗の寺が三軒並んだ先、ガソリンスタンドと民家の間の鰻の寝床のような路地に、近松の墓はあるのでした。
当時の人気プロデューサーでしょうが、これは惨めでしたね。何でも元々墓があった寺が移転したために、現在はほとんど人目につかない路地奥に残っているのだとか。
いかにも古寂びた墓石の横に、捻じ曲がった桐の古木が寄り添っていたのが印象的。ここも訪ねる人は皆無。少しは懇ろに供養してあげなければ門左衛門さんに申し訳が立たないのじやないか。
井原西鶴、近松門左衛門と繰れば、江戸期の三大文芸巨匠のもう一人、松尾芭蕉の史跡はないものか。
ということで、時間の関係もあり、最後に芭蕉の終焉の地を踏むことに決定。
上本町から近鉄でなんばに戻り、再び御堂筋線で二駅北上、本町(ほんまち)で下車します。
駅前をだだっ広い御堂筋が走り、やや南下したところにある南御堂。この境内に松尾芭蕉の句碑が立てられています。
「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」
芭蕉は元禄7年(1694年)に南御堂付近で亡くなりましたが、この句碑はそれから150年ほど後の建立。
句碑の横に芭蕉が植えられ、大きな葉を垂らしていたのが目に焼き付いています。
西鶴、近松と同様に、訪れているのは私共ばかり。何とも観光臭の希薄な旅でありました。
この御堂筋の真ん中辺りに「終焉の地」の石碑があるそうですが、車の往来が激しく、とても近づけるシロモノじゃありません。
ということで、今回の難波巡りはおしまい。折角大阪まで来たのだから旨い物を食らおうか、と思ったけれど、時間も腹具合も折り合わず。
メンデルスゾーン三昧の大ご馳走で、お腹は一杯。
ホールが良かったので、演目次第では帰ってくるかも。さしあたって来年4月、広上/京響の大阪公演がある由。チャイコフスキーの「悲愴」他のプログラムですが、京都のホールで聴くより良いでしょうね。
大阪の地理が僅かながら頭に入ってきたプチ旅行でした。
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