日本フィル第585回定期演奏会

11月17日、日本フィル金曜定期の感想です。

ジェームス・ロッホランの振る英国物2曲、という一見シンプルなプログラムですが、そこはシャーロック・ホームズの国の音楽、どちらも謎解きの趣があります。

エルガーの謎は先日の日記に書いたので繰り返しません。そんなことより、これは実に素晴らしい演奏でした。私は川久保賜紀というヴァイオリニストも、エルガーのヴァイオリン協奏曲もナマでは初体験です。
当初は作品の概要が掴めればよい、という程度の認識でいたのですが、いきなり音楽の核心を衝いた名演に出会ってしまった、という感想です。
スコアによれば、コントラファゴットとチューバはアド・リブ、即ちバランスによっては使わなくてもよいことになっていますが、ロッホランの選択は両楽器を使うばかりか、弦にしてもコントラバス8本を並べる16型。
これで華奢な女性ヴァイオリニストが耐えられるのだろうか・・・。

ところが川久保は、長いオーケストラの前奏からして余裕綽々、大曲にして難曲であるエルガーを前に硬くなっている様子はまるでないのです。
それどころか、ときにロッホランの指揮台に寄り添って共に旋律を謳い、コンサートマスター(木野雅之)とアイコンタクトを取りながらボウイングを合わせる。呼吸がピタリと合えば、木野クンに妖艶な微笑を贈る、という具合で、エルガーのキモを完全に手中に修めているのでした。
ソロはソロ、オケはオケ、というような分業は、この曲の場合全く通用しません。

ヴァイオリン協奏曲のキモは何か。それは繊細な抒情とピアニシモにある。
その意味で全曲の核心は第2楽章・アンダンテでしょう。川久保とロッホランは、細やかな音譜と内に秘めた情熱を一心同体のように紡いでいく。その美しいこと。
第1楽章の核も、第2主題のドルチェ・センプリーチェにあるでしょう。俗にいうアネモネの主題。息を殺すように囁かれるピアニシモはほとんど愛の告白。ここでは弦だけのオーケストラが暖かく二人を見つめるのです。
そして何といっても第3楽章に置かれている5ページにも及ぶカデンツァ。カデンツァといってもいくつもに分割されている弦楽合奏とホルンが加わるカデンツァ・アコンパニャータ。
ここは圧巻でした。言葉もない。

この協奏曲はオーケストラも油断がならず、ほとんど小節ごとにテンポやアーティキュレーションが微妙に変わります。4拍子だからといって単純に1・2・3・4という訳にはいかない。
音量も然り。大ホールを一杯に満たす総奏が響いた次の瞬間には息を殺すようなピアニシモが待っている、という具合です。
ロッホランはスコアを熟知していますから、この辺のコントロールは名人芸の域です。
オーケストラもマエストロが太鼓判を押していたように、エルガリアンに徹していました。アメリカの某オーケストラとは格が違う。
特にティンパニー(首席の森氏ではなく副首席・遠藤氏)の深々として重量感に満ちた音が、作品に更なる奥行きを与えていたのか印象に残りました。
1時間になんなんとする大曲ですが、退屈するとか飽きるとかいうことは全くなく、しかし完全にリラックスして楽しめる作品です。いゃ~~、素敵な体験をいたしました。

後半はホルスト。
これがまた面白い。私にとっては「謎」としか思えないようなことがいくつかあるのですが、全部を書くわけにもいかないので思いつくままいくつか・・・。

「惑星」といいながら、地球は描かれていませんね。プルート(冥王星)が発見されたのは確か1930年ですから組曲「惑星」から外れているのは当然でしょうが、この並び方に意味はあるのか。水・金・(地)・火・木・土・天・海とは並んでいません。
夫々に副題が付いていますが、Bringer(もたらす者)を伴うものが四つ(第1・2・4・5曲)、他は使者、魔術師、神秘主義者。このセットに暗示はあるか。

第1曲と第2曲は、戦争をもたらす者と平和をもたらす者で、明らかに対称になっている(はず)。一方で第4曲と第5曲が快楽をもたらす者と老いをもたらす者で、これもペアであろう。

最初と最後は共に5拍子が使われていて、第1曲はフォルティシモを、第7曲はピアニシモを基調としており、明らかに対称という意識があると思われる。地球からの距離も関係しているのではないか。

第3曲のマーキュリーは、聴いているだけでは分からないけれど、第1ヴァイオリンとヴィオラが♭2つで、第2ヴァイオリンとチェロが♯3つで書かれている。拍子も八分の六だけれども2拍子と3拍子が複雑に入り組んでいる。何かを象徴しているようにも見える。
等々。こうしたことは、恐らく占星術の領域なのでしょう。

ホルストを占星術に導いたのはバックスでした。作曲家のアーノルド・バックスではなく、その兄弟(兄か弟かは分かりません)で作家のクリフォード・バックスです。夢中になったホルストは、星占天球図を読みこなすまでになったそうです。私のような素人の出る幕はありません。
また彼は若い頃からヒンズー教やサンスクリット文学にも造詣が深かったのだそうです。そこから来ると思われる東洋的な色彩も「惑星」の魅力です。
特に私にはバス・オーボエの独特な音色が神秘的に感じられるのです。

第5曲サターンの振り子が揺れる中、2度音程の動機が楽器を替えて歌い継がれますが、バスオーボエのソロに来ると鳥肌が立ってしまうのは私だけでしょうか。
「惑星」は「春の祭典」と不思議な共通点があります。大管弦楽の定番という外見だけではなく、ストラヴィンスキーとホルスト両者にとって作風の転換点になったこと。どちらも東洋的な異臭を含んでいること。共に夫々の代表作で、他の作品を覆い隠してしまっていること、などです。
「春の祭典」だけでストラヴィンスキーを語れないのと同様、「惑星」だけでホルストを評価したり断定することは許されないのです。

しかしながら「惑星」は底知れぬ魅力を湛えた作品です。これがまだイギリス国外では知られていなかった時代に、カラヤンが取り上げて録音した事実。私はこのことだけでも、惑星を侮るべきではない、と考えます。

肝心のロッホラン。特別大袈裟な表現はせず、しかしながら要所ではキメ細かい指示を与えることによって作品のスケールとパワー、繊細な音色を見事に描き出しました。
有名なジュピターのビッグ・メロディーにしても、音楽に自然な流れを保ったまま、高まり行く感情を直裁に表現して、思わず背筋が伸びる思いでした。

何よりも「気品」のある指揮が、オーケストラの性格と見事にマッチして、名誉指揮者としての存在感を高らかにアピールしていたという感想を持ちました。

 

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