ウストヴォルスカヤの死

今朝、久し振りに作曲家のホームページを開けたら、訃報が入っていました。

ガリーナ・ウストヴォルスカヤ。昨年末、12月22日にセント・ぺテルスブルグで87歳の生涯を閉じました。

彼女の作品はまだまだ知られていません。実際、私も聴いたことがないのです。
しかしショスタコーヴィチの伝記などを読めば必ず登場してくる人ですね。

ウストヴォルスカヤはレニングラード音楽院でのショスタコーヴィチの最初の弟子の一人でした。ショスタコーヴィチは彼女の才能に驚き、生涯親交を続けています。成行き上でしょうか、愛人関係でもありましたね。
ショスタコーヴィチが最初の妻を癌で亡くしたあと、彼女に再婚のプロポーズをしていますが、ウストヴォルスカヤの方から断っています。

オラトリオ「森の詩」を初演した晩、ホテルに戻ったショスタコーヴィチは、彼女の前で枕に顔をうずめて号泣し、ウォッカをがぶ飲みしても酔っ払うことはなかった、という逸話が伝えられています。

ショスタコーヴィチは、自分の生徒を決して誉めない教師でした。しかしウストヴォルスカヤだけは例外で、彼女が自分の影響を受けているのではなく、自分の方が彼女から大きな影響を受けている、とまで語っています。
それは単に愛人関係だったからということではなく、真に音楽家として認めていたからなのです。

実際、ショスタコーヴィチは自身の弦楽四重奏曲第5番の中で、ウストヴォルスカヤのクラリネット・トリオの主題を引用しておりますし、晩年の「ミケランジェロ組曲」には彼女のアドヴァイスによって完成した作品もあるくらいです。

ウストヴォルスカヤ自身は、極めて孤高の生涯を送った人でした。ペテルブルグの小さなアパートから出ることはほとんどなく、人々との付き合いも全くありませんでした。
インタヴューや写真を撮られることが大嫌いで、彼女の写真はほとんど残っていないようですね。また、自作品の解説などもほとんどしていないそうです。
作品も滅多に演奏されることはなく、作曲から20年してやっと初演というのは日常茶飯のことです。

従って、ウストヴォルスカヤの名前が西側諸国に知られたのは最近のこと。1986年のウィーン芸術週間で紹介されたのが最初でした。
自作品の演奏会にも出掛けなかったといいますから、海外に出ることもほとんどありません。1996年1月6日(11年前の今日!)にアムステルダムで彼女の作品によるコンサートが行われましたが、このときが恐らく海外に出た唯一の機会だったのではないでしょうか。ステージで聴衆に応える珍しい写真が残っています。

完成作品はおよそ2ダースほど。交響曲が5曲、ピアノソナタは6曲、コンポジションというタイトルの連作が3曲あります。
コンポジションには宗教的なタイトルが付いています。1番は「ドナ・ノービス・パーチェム」、2番が「ディエス・イレ」、3番は「ベネディクトゥス・クイ・ヴェニット」。

彼女は普通の意味で言う宗教的な人ではなかったそうです。
彼女の場合の「宗教的」というのは、あくまでも自然との対話という意味合いがあった由。
人間と話すより、鳥や蟻との会話を楽しんだ人だったのですから。

ウストヴォルスカヤが知られ、その作品が頻繁に聴かれるようになるまでにはまだまだ時間が必要なのかもしれません。
しかし、ショスタコーヴィチが与えた高い評価。それが全てを予感しているような気がします。
私もいずれ機会を捉えて、ウストヴォルスカヤの人と音楽に触れたいと強く希望しているのです。

合掌。

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