ヒンドスタン

以下は、私が1976年10月の「優駿」誌に投稿したものの再録です。30年以上前の記事ですから、現在の感覚とは相当なズレがあるでしょう。敢えて原稿そのままを使用しています。

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私がこの小論を書く理由は二つある。一つはサラブレッド生産が進むべき方向を見誤っているのではないか、という危惧であり、もう一つはそろそろヒンドスタンについて、私論ではあるが、まとめておいた方がよいのではないか、という考えである。
しかし、実際に種牡馬について何か書こうとすると必ず直面するのは資料の不足と情報の不完全さである。それは単に一国の問題に留まらないので、余計、面倒だ。だが、完璧を求めても何もできまい。
競馬はほとんど世界中で行われているが、世界中で同じ競馬が行われているのではない。競馬を開始した動機も異なるだろうし、競馬への人々の反応も違う。馬の世界でありながら、人間を無視することはできない。見る人、考える人が違えば、馬に対する評価もまちまちである。私が共に考えることができる馬は、現代の、それも極く限られた国の一部の馬にすぎない。手元には記録が残っているだけだ。私は現場に居合わせた人間でもないし、獣医学の知識も持ち合わせてはいない。推測と主観だけが支えである。しかし、競馬に少しでも関心ある人々に、論議の題材を提示するのも無駄ではないだろう。

毎年、アイルランド・ダービーはエプサム・ダービーの約三週間後に行われる。1868年創設。以来、ずっとカラー競馬場で行われてきた。そもそもカラーという地名は、ラテン語の競馬場(クルサス)からとられたほどで、紀元一世紀頃からこの地方の競馬の中心地であった。
アイルランド・ダービーは15年ほど前までは、賞金も名声もとるに足りない、単なるローカルダービーにすぎなかった。一例をあげれば、アイルランドのクラシック・レースは--牝馬のレースは別として--騸馬の参加を認めていた。現在ではエプサム・ダービーの活躍馬はアイルランド・ダービーにも出走してくるが、以前はアイルランドの地元馬と、イギリスの二流馬が参加するレースだった。
そして1962年、賞金が一気に増加、名称もアイリッシュ・スイープス・ダービーと改名され、ヨーロッパの一流レースに数えられるようになった。
この再スタートの年にはエプサム・ダービーの1着賞金が34,786ポンドであったのに、アイリッシュ・スイープス・ダービーは50,027ポンド。この年のイギリス・アイルランド両国では最高賞金のレースだった。賞金の増加と共に出走馬も一流馬が揃い、ラグサ、サンタクロース、メドウコート、ソディウム、ニジンスキー、グランディなどの名馬が勝っている。
アイルランド・ダービー馬と日本との関係は、1934年にさかのぼる。この年、1着はプリメロとパトリオキングの同着。このプリメロがアイルランド・ダービー馬としては初めて日本に輸入され、ミナミホマレ、タチカゼ、クモノハナ、クリノハナの4頭のダービー馬をはじめ、皐月賞馬5頭、菊花賞馬3頭、桜花賞馬2頭、オークス馬1頭など数々の優駿を輩出し、日本のサラブレッド生産に大きな影響を与えた。そして戦後、ヒンドスタン、シャミエ、ザラズーストラ、パナスリッパー、シンドン、フィダルゴ、ユアハイネスと、続々と輸入され、アイリッシュ・スイープス・ダービー以降も、ソディウム、リボッコ、アイリッシュボールが輸入されている。最近の輸入馬を別にすれば、この中で日本の競馬にも大きな影響を与えたのは、しうまでもなくヒンドスタンである。

1949年のアイルランド・ダービーは、勿論ローカルダービーの時代で、出走馬は12頭。ヒンドスタンとアメリカ産馬ブラウンロウヴァーの2頭の外国馬と10頭のアイルランド馬の争いだったが、結果はヒンドスタンとブラウンロウヴァーの一騎打ちとなり、ヒンドスタンがブラウンロウヴァーに1馬身4分の3差で勝ち、アイルランド馬は惨敗した。
この年のイギリスの牡馬のクラシック・レースは、2000ギニーとダービーがニンバス、セントレジャーはリッジウッド。アイルランドは2000ギニーがソロナウェー、ダービーがヒンドスタン、そしてセントレジャーにはムーンダストが勝った。何とこのうちニンバス、ヒンドスタン、ソロナウェーの3頭が日本に輸入され、競走成績とは逆にヒンドスタンが最も成功した種牡馬となった。
競走成績と繁殖成績は必ずしも一致するものではないが、これもその一例である。
現役時代のヒンドスタンは極めて奥手の馬で、脚部難が一層仕上がりを遅らせていた。それでも2歳時に2度、競馬場に姿を現わした。
デビュー戦はアスコット競馬場のニュー・ステークス、これはマカルプラの着外。もう一戦はサンダウン競馬場のナショナル・ブリーダーズ・プロデュース・ステークスで、アバーナントに5馬身遅れの3着だった。アバーナントは後にベスト・スプリンターとして活躍した馬で、スプリンター系種牡馬として大成功した。それを考えれば、5馬身差とはいえ、3歳戦で示したヒンドスタンの能力はクラシックへの期待を抱かせるのに充分なものだった。
3歳になってもヒンドスタンの脚部難は解消しなかった。そのためヒンドスタンは良馬場をひどく嫌っていたという。
3歳時の第一戦は、2000ギニー。人気もなく、スピードに勝るニンバスとアバーナントの着外は当然の結果だった。2000ギニーとエプサム・ダービーの間に、ヒンドスタンは二度トライアル戦に出走している。良馬場のニューマーケット・ステークス(10ハロン)には負け(5頭立ての3着)、重馬場のセント・ジョージ・ステークス(13ハロン)は、2着に3馬身差をつけて楽勝した。
こうして臨んだダービーは良馬場、ヒンドスタンには正念場であった(注)。5度目のダービー制覇を狙ったアガ・カーンの勝負服も、今回ばかりは後方のまま終始した。
この3週間後、ヒンドスタンはアイルランドでダービー馬となる。この時も良馬場だったが、相手も弱く、脚部にバンテージを巻いて万全の態勢だった。
エクリプス・ステークスがヒンドスタン最後のレースである。初めての古馬との対戦だったが、フランスの4歳馬ジェダーの5着。この日も良馬場だった。このあとヒンドスタンはセントレジャーへ向けて調整されたが、直前のニューマーケットでの調教で脚部難が再発、そのまま引退した。
ヒンドスタンの現役生活は天候との闘いだった。得意の馬場に一度しか恵まれなかったのは不運だ。固い馬場がヒンドスタンの引退を早めた。ヒンドスタンのように奥手の馬が3歳で引退したのは、残念なことである。
しかし、彼の奥手という資質は、後年、日本で開花することになる。

初め、ヒンドスタンはアイルランドのクローヴラン・スタッドで種牡馬になった。種付料は199ポンド。20万円前後だろうか。当時公表された最高の種付料は、ブルーピーター、ダンテ、ハイぺリオン、ナスルーラー、プレシピテーションなどが400ポンドを若干上回る程度だから、その半分と考えればよいだろう。ソロナウェーの父ソルフェリノがヒンドスタンと同じ199ポンド。このリストから日本に関係ある馬をひろうと、パールダイヴァーが約260ポンド、フルブルームとライジングライトが198ポンド、ハロウェーが98ポンドといったところ。同期の馬の初年度の種付料では、ニンバスはシンジケート種牡馬で公表されず、アバーナントが約300ポンド、リッジウッドが250ポンド、ソロナウェーは200ポンドである。
アイルランドでの6年間の供用でヒンドスタンの代表産駒と呼べるものは、4年目の産駒でオーモンド・ステークスに勝ったヒンドゥーフェスティヴァルただ1頭。
1955年の終わりにヒンドスタンは日本へ輸出された。1962年の種牡馬のスタミナインデックスを見ると、ヒンドスタンは10.91。中距離からステイヤー系の種牡馬だが、成績は二流でしかなかった。

ヒンドスタンはブッフラーと共に輸入された。有名な話である。この頃(1956年)はまだ種牡馬の輸入が再開されて間もない時。当時の輸入種牡馬を供用年度順に列記しよう。
1952年 ヴィーノーピュロー、グレーロード
1953年 タークスリライアンス、ビッグヴィ、フランクリー、ライジングフレーム
1954年 ゲイタイム、トリプリケート、ブラックウィング、リンボー
1955年 ハロウェー、ブリッカバック、フルブルーム、ライジングライト
1956年 ヒンドスタン、ブッフラー
これで見る通り、ヒンドスタンが最初に浦河で供用された時、輸入種牡馬はわずかに15頭前後、しかもヴィーノーピュローとグレーロードの初産駒がクラシックに出走したばかりだった。
もう一つ、上の顔ぶれを見ると、どこのダービーであれダービーに勝った馬は、ヒンドスタンだけ。しかもエプサム・ダービーに限れば、ゲイタイムは2着、ライジングフレーム、ライジングライトは共に5着に入線している。以上がヒンドスタンを取り巻いていた環境である。
日本で最初に競馬場に登場したヒンドスタンの仔は、昭和34年7月18日小倉で出走した牝馬ダイナミック。そして最初の勝馬もダイナミック、一週間後の7月25日2戦目だった。しかし最初に注目を集めたのは、福島でデビューしたタイアンだろう。8月2日2戦目の800メートル戦で2着に8馬身の差をつけ、47秒2のレコードタイムをマークした。このレコードは現在まで破られず、800メートル戦が既に行われなくなった今日、永遠に残ることになる。
ヒンドスタン初産駒のチャンピオンはヤマニンモアー。ヤマニンモアーはダービーこそコダマの2着し、2・3歳時8勝の勝星を上げているが古馬になって大成し、36年春の天皇賞に勝った。
このように、ヒンドスタンの初産駒は2歳の最短距離戦でレコードタイムをマークした馬から、スタミナレースの天皇賞の勝馬まで多彩な活躍をみせた。そしてこの後、約15年間、ヒンドスタンの産駒は日本中の競馬場であらゆる種類のレースに好成績を残すことになる。

今、私はヒンドスタンの重賞勝馬一覧表を見ている。そしていろいろなことに気付く。
ヒンドスタンのクラシックホースは2年目の産駒に見出せる。一時に3頭も。桜花賞のスギヒメ、皐月賞のシンツバメ、そしてダービー馬ハクショウ。以後ヒンドスタンは、5年目の産駒シンザンを頂点に、毎年のようにクラシックを賑わした。クラシックレースでの活躍馬は別に書き出しておこう。
ヒンドスタン最後のクラシック勝馬はワイルドモア。そして最後の入着馬はハクホオショウだ。面白いことに、この2頭は共に脚部故障で引退した。父ヒンドスタンが常に脚部難と闘い、それによって引退したことを思い出していただきたい。
先に触れたように、ヒンドスタンは奥手の馬であったが、自身は脚部難のため古馬のレースを経験することなく、3歳で引退してしまった。あるいは一連のクラシックレースへの無理使いが祟ったのかも知れない。
日本ではクラシックへの出走権が賞金によって左右されるため、クラシックに参加しようとする馬はどうしても2歳から3歳の春にかけて無理使いする傾向がある。これが奥手の馬に悪影響を与える。優秀な能力を持った奥手の馬が、成長途上の無理使いによってダメになってしまう例は多い。
ヒンドスタンの仔には3歳のクラシック、特に春のクラシックでは能力を発揮できなかったが古馬になってチャンピオンに成長した馬が目立つ。天皇賞馬5頭(ヤマニンモアー、リュウフォーレル、ヒカルポーラ、ヤマトキョウダイ、シンザン)、有馬記念馬3頭(リュウフォーレル、ヤマトキョウダイ、シンザン)、宝塚記念馬4頭(リュウフォーレル、ヒカルポーラ、シンザン、エイトクラウン)のうち、3歳春のクラシックに勝ったのはシンザンだけ。阪神3歳(現2歳)ステークスに勝ったエイトクラウンを別にすれば、あとは皆クラシックレースでは一息伸び切れなかったか、間に合わなかった馬である。
最近のクラシックレースはスピードに勝るナスルーラー系の全盛である。日本でも、特に皐月賞でこの系統の活躍が目立っているが、天皇賞では阪神コースで行われた時のリキエイカンと、むしろメイヂヒカリの血を濃く受けた府中でのトウメイの2頭、有馬記念ではトウメイただ1頭である。リキエイカンもトウメイもナスルーラー系とはいっても、ナスルーラーとは違ったタイプのネヴァーセイダイを通った系統であって、プリンスリーギフト、グレイソヴリン、ボールドルーラーなどの系統は、未だ天皇賞・有馬記念の勝馬を生んでいない(1976年9月現在)。
これから考えても、ヒンドスタンの血が古馬になってから開花したことが、ひどく目につくのである。

ヒンドスタンは生涯にわずか2勝だったが13ハロンと12ハロン、どちらもヨーロッパ流の言い方をすればミドルディスタンス、あるいはクラシックディスタンスでのもの。エプサム・ダービーは惨敗だったが、カラーのコースとエプサムのコースを比べれば、カラーの方がずっと力の要るコースで、ヒンドスタンにはカラーの方が適していたと考えられる。ヒンドスタンはイギリス、アイルランドで10.91ハロン(1962年の数字)というスタミナインデックスを残したが、これは短距離向きとはいえない数字である。
日本ではスタミナインデックスを計算する習慣がないので正確な数字は出せないが、ステークス競走での勝鞍をみると、ミドルディスタンス(2000~2400メートル)から長距離(それ以上)での活躍が、やはり目立つ。私の調べたところでは、中央競馬でのヒンドスタンのステークス・ウイナー(特別及び重賞競走)は169頭。このうち38頭が2000メートルを越える距離で勝っている。5頭に1頭の割合だ。同じことをライジングフレームの産駒について調べた数字と比較してみると、ヒンドスタンがいかに長距離向きの種牡馬だったかがわかるだろう。数字は何も表さない、という人達にはヒンドスタンの生んだステイヤーの名前をあげておこう。
ヤマニンモアー、トウコン、リュウフォーレル、ヒカルポーラ、ゴウカイ、ヤマトキョウダイ、ミハルカス、シンザン、オーヒメ、ウメノチカラ、エイトクラウン、ダイコーター、リュウファーロス、フジノタカネ、アサカオー・・・・。
ヒンドスタンの産駒について、もう一つ面白い事実をあげておく。毛色の問題である。毛色は必ずしも能力とは関係ないが、ヒンドスタンの重賞勝馬は全て鹿毛か黒鹿毛である。写真を見るまでもなく、ヒンドスタン自身は黒鹿毛である(イギリスでは鹿毛で登録されていた)。これは偶然ではない。その証拠に44頭の重賞勝馬のうち、栗毛の母を持つものはエイトクラウン、エリモカップ、オンワードスタン、オーハヤブサ、オーヒメ、クインオンワード、ゴウカイ、シンザン、シンツバメ、タマクイン、ハクホオショウ、ヒカルポーラ、ブラックバトー、ランドエース、リュウスパーション、リュウファーロス。母が芦毛の馬はギントシ、コウタロー、ハクショウ、ミノルで、あとの24頭の母が鹿毛か黒鹿毛である。
世界的にはウィルウィンがその毛色をほとんど例外なく産駒に伝えたのが有名だが、ヒンドスタンは日本における最高例といえるだろう。更に特別競走の勝馬まで目を拡げてみても、169頭中、165頭が鹿毛又は黒鹿毛で、わずか4頭、ヤマニンカップ、ドルスタン、ダイセツ、ランドオーカンが芦毛で、栗毛のステークスウイナーは1頭もない。

最後にブルードメアサイアーとしてのヒンドスタン。
種牡馬の評価は短期間で結論がでるものではない。日本では初産駒の成否がその後の評価に重大な影響を与えてしまう。競走馬にも早熟タイプと晩成タイプがあるように、種牡馬にも初産駒から優秀な産駒を出すタイプと次第に良績をあげていくタイプがある。後者の典型的な例は、ハリーオン系である。ハリーオンの最高傑作–プレシピテーションは、ハリーオン20歳の時の仔である。プレシピテーションが19歳の時に名馬チャモセアが生まれ、チャモセアの傑作サンタクロースもチャモセア19歳の時の仔である。もしこの系統が日本で供用されれば、すぐに見限られ、忘れられ、血を絶やしてしまうだろう。
種牡馬にはもう一つ、ブルードメアサイアーとしての評価がある。これには種牡馬としての評価以上に長い目でみる必要がある。皮肉なことに、名競走馬でありながら種牡馬としては成功しなかった馬に、ブルードメアサイアーとして成功する例が多いものだ。生産者は良い肌馬を得ようと思うなら、種牡馬を選ぶべきだ。その時に功を急いで流行の種牡馬を追い求めるだけでは、決して良い結果は生まれないだろう。
ヒンドスタンのブルードメアサイアーとしての実績は、まだ道程半ばであるが、種牡馬としての実績に比してやや寂しい成績といわざるを得ない。ステークスウイナーの数としては第一級の活躍といえるが、質的には、むしろ中堅級の活躍馬が多く、クラシック級が乏しい。現在まで、ヒンドスタンをブルードメアサイアーに持つクラシック馬は、アカネテンリュウとランドプリンスのわずか2頭だ。
しかし、これはまだ今後の問題である。ヒンドスタンの父ボアルセルも、その死の時点ではブルードメアサイアーとしては目立った産駒もなかったが、後にプティトエトワール、カンテロ、セントパディ、アザーストンウッド、レインディア、サンタティナ、イングリッシュプリンスなどのクラシック馬を出した。
ヒンドスタンが父ボアルセルと同じ道を歩んでも不思議はない。ブルードメアサイアーとしてのヒンドスタンの成績も表示しておこう。

人間の成長には、生まれ育った土地の風土・環境が重要な意味を持っている。競走馬にとっても同じだ。というより、馬は自然の産物であり、自然の中で育つ動物である。人間以上に風土や環境が重要であるのは当然だろう。種牡馬が成功するか否かも、この事実を無視して考えるわけには行くまい。特に、日本のようにサラブレッド資源を海外に求めている国においては、まず、この点を考えるべきではないか。
輸入種牡馬が生まれ育ち、走ったのは日本とは異なる大地であり、空気であった。そこで日本とは異なった形で人間と接触してきた。馬にはそれぞれの個性がある。個性とは、血統を土台にして、生まれ育った土地の環境と、彼らに触れた人間とのつながりの中から形成されてきたものだ。大きな意味で血統とはそういうものである。単にマイラーだとか、ステイヤーだとかいう評価は、血統というつかみどころのない事実の、ほんの一面にすぎない、と私は考えている。
戦後、サラブレッドの輸入が再開されてから、現在まで、一体どの位の数のサラブレッドが輸入されたのだろう。その内何頭が日本に根を下ろし得たのだろうか。毎年夏になると新種牡馬の紹介記事が紙面を賑わしている。競馬のように消長の激しい世界では10年、いや5年を単位にして種牡馬の勢力分布が変わっていく。時は流れ、ファンが変わり、古い種牡馬は忘れられてゆく。
10年前を想い出していただきたい。1965年秋、競馬界は史上初の5冠馬を迎えようとしていた。時は正にシンザンの時代であり、その父ヒンドスタンの時代であった。シンザンを支えた脇役たち、ミハルカス、ウメノチカラ、ヤマトキョウダイなど、皆ヒンドスタンの子供達だった。だが今、ヒンドスタンは何処へ行ってしまったのか。最早ヒンドスタンの直仔は競馬場から姿を消した。ヒンドスタンの死という事実から当然のことだ。だが、ヒンドスタンの子供達の名はヒンドスタンよりもずっと早く、姿を消してしまったようだ。ヤマニンモアーやリュウフォーレルは? ヒカルポーラやハクショウは? シンザン? そう、シンザンは内国産種牡馬のチャンピオンだ。だが、種牡馬のチャンピオンではなく、内国産種牡馬のチャンピオンである。何故そうなのか?
おそらくヒンドスタンは数知れぬ輸入種牡馬の中にあって、最も日本の風土・環境に適した馬であったろう。彼の性格や内面についてもう知ることはできないが、その血は受け継がれている。だが人間はそれを無視した。この国で、この国に最も適応した血を無視して他の血を求めた。確かに競走馬に同じ系統の血が偏ることは危険だ。しかし新しい血の導入は、血の改良という意味で行われるべきであって、定着しつつある血を捨て去るという意味で行われるべきではない。
1970年代の流行はナスルーラー。テスコボーイ、ネヴァービートは生産界では圧倒的な人気を持っているようだし、ファバージ、バーバーなども人気がある。だが、80年代には何が流行するのか? ネヴァービートやテスコボーイが忘れられ、過去のものになっていくことだけは現実のものとなりそうだ。
日本では、血統とは過去を忘れ、新しさを追求するためにのみ存在している。新しさを追求することは悪いことではない。しかし、風土や環境、馬の内面や正確を置き去りにしてしまっては、いつまでたっても出発点に留まっているだけだ。その意味でヒンドスタンの存在は我々の競馬観への警鐘である。
(注) ヒンドスタンの馬主だったアガ・カーンは、この時までにブレニム、バーラム、マームード、マイラヴで4度、ダービー馬主となっていた。その他にも2着7回(ジオニスト、ダスター、タジアクバール、ターカン、ユミダード、テヘラン、ミゴリ)、3着3回(ルグランダック、ナスルーラー、ヌーア)という輝かしい記録の持ち主である。この後アガ・カーンは1952年、タルヤーで5度目のダービーに勝ち、現在まで、エグルモン卿と並んでダービー最多勝馬主の一人である。
(この小論を書くにあたって、ブラッドストック・ブリーダーズ・レヴュー誌の1948年、1949年、1962年版を参考にしました。)

 

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