東京籠城日記(2)

4月8日の話題ということですが、今日もネタはたくさんありますね。誕生日ならタルティーニ(1692年)、指揮者のボールト(1889年)とクリップス(1902年)、歌手でフランコ・コレルリ(1921年)とワルター・ベリー(1929年)がいます。一方、命日を探すとドニゼッティ(1848年)、チャールズ・グリフス(1920年、丁度没後100年です)、マリアン・アンダーソン(1993年)、日本に目を向けても安藤幸(1963年)と石井真木(2003年)と取り上げたい人は沢山いますが、ここはシャルル=オーギュスト・ド・ベリオに注目しましょうか。1870年のこの日に亡くなっていますから、没後150年ということになります。

えっ、ベリオって誰よ? という声が聞こえてきましたが、ヴァイオリンを習った人なら多分知っているでしょう。私のような聴くだけ人間には余り縁のない人ですが、いわゆるフランコ=ベルギー楽派の創始者として有名で、ヴァイオリンの教育に使われる楽曲を数多く残しています。ピアノの練習者にとってのツェルニーのような存在でしょうか。
1802年2月20日生まれ、ベルギーのヴァイオリニスト兼作曲家で、音楽以外にも才能を発揮、機械にも強く、風景画家としても一端の腕前で、彫刻家でもあったそうな。ま、この手の才人は19世紀のヨーロッパでは普通のことだったのかも。

ベリオは恋の道にも長けていたようで、パリで7月革命のどさくさに紛れて当時一世を風靡していた大ソプラノ歌手のマリア・マリブランと駆け落ちし、5年後には正式に結婚します。このマリブランの父はロッシーニも激賞したマヌエル・ガルシアというテノール歌手で、作曲家でもありオペラの興行師だったこともあって、マリアが初めてオペラで歌ったのは何と5歳の時だったそうな。
父親の一座がニューヨークで公演していた時に、金目当ての政略結婚で結ばれたのが遥かに年上の銀行家フランソワ・マリブランという人。それでマリア・マリブランという名前になったわけ。ところが夫の銀行家は破産してしまい、ヨーロッパに戻って出会ったのがベリオでした。

好事魔多し。晴れて結婚した二人でしたが、その直後、マリアがマンチェスター音楽祭に参加したあと、妊娠中だったにも拘わらずロンドンで乗馬中に落馬。結局これが元で、マリアは28才の若さで亡くなってしまいます。
妻に先立たれたベリオもその後は不運続き、50才で目を患って引退し、遂には失明。更には左腕が麻痺して作曲も断念せざるを得なくなりました。1870年の4月8日、ブリュッセルで68年の生涯を閉じます。
今日では、ベリオは弟子のヴュータンを通して現在まで繋がるフランコ=ベルギー楽派の基礎を築したことでのみ知られていますが、妻マリアとの間に生まれた息子シャルル・ウィルフリード・ベリオがパリ音楽院のピアノ科教授になり、グラナドスやラヴェルを育てているという功績?も残しているのですね。

ベリオの作品は殆どがヴァイオリンのための作品で、協奏曲は10曲残しました。ところでペトルッチ楽譜ライブラリーには毎日のように新しい楽譜が投稿されていますが、最近特に目立つのがベリオの譜面。今年がベリオの没後150年ということと関係があるのかもしれませんが、ベリオの命日である今日は、その協奏曲から何曲かを聴くことにしましょう。
ナクソス・ミュージック・ライブリーでは第10番を除く9曲を聴くことが出来ますが、ここではナクソスのクラウス・ヒーマン社長夫人でもある西崎崇子さんのソロ、アルフレート・ヴァルター指揮ブリュッセル放送交響楽団の演奏による1番、8番、9番が入った1枚を。オーケストラがベリオと同郷のベルギーの団体というのも良いですね。もちろん楽譜は、ピアノ譜ながらペトルッチから無料でダウンロードして楽しみましょう。

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