トゥーランガリラ交響曲
昨日は「不倫交響曲」じゃなくて「トゥーランガリラ交響曲」を聴いてきました。
読売日響第455回定期。指揮はシルヴァン・カンブルラン。名前は古くから知っているし、レコードや放送を聴いた事もありますが、接するのは初めて。1948年生まれというから私より年下じゃないか。
ピアノはロジェ・ムラロというおっそろしく背の高い人。テクニックは確か。オンド・マルトゥノは我が原田節(ハラダタカシ)です。
トゥーランガリラをナマで聴くのは少なくとも三回目、読響とボドの日比谷公会堂と、数年前の日本フィル/沼尻はよく覚えています。他に放送ながら小澤/N響、サロネン/N響、デュトワ/N響、大野/東フィル、大友/東響と、現代作品にしては極めて演奏される機会が多いものです。
それは偏に名手・原田節氏の存在があるからでしょう。オンド・マルトゥノという楽器がなければ演奏できないし、その奏者は限られています。日本人の世界的奏者がいるからこそ、我が国ではこれだけ頻繁に演奏されるのだと思います。
原田氏自身から聞いた話ですが、この楽器は電気楽器ながら一台一台が手造りで、夫々個性があるそうです。簡単に部品に互換性があるわけではないようで、メンテナンスが大変だとか。
その意味で氏のような音楽的・技術的に掛替えのない人を擁している日本音楽界はトゥーランガリラ天国と言えるでしょう。
原田氏からはメシアンについて、この大作についても詳しい解説を聞きました。日本フィルが演奏した際のマエストロサロンです。これは今でも読めますし、どんな解説書も及ばない貴重な情報源です。
実は私もこれによって初めて「トゥーランガリラ交響曲」の全容を知ったような有様ですね。
今回も圧倒的な演奏でした。作品に対する好き嫌いがあっても、有無を言わせぬ、という迫力がありましたね。
カンブルランという人をこれだけで判断するわけにはいきませんが、現代作品を得意にしているらしく、曖昧なところはありません。オーケストラの能力にも満足したようで、終演後も大変な上機嫌に見えましたし、オーケストラも心の底から指揮者を称えているようでした。
それでも私はトゥーランガリラ交響曲を素直には楽しめません。例えばこの間もシェーンベルクを聴きましたが、このときのような感動は受けないのです。音楽としてはシェーンベルクの方が遥かに難解ですし「解らない」のですが、聴いた後の感動はこちらが上です。
メシアンは面白いですよ。メロディーを口ずさむことも出来ますし、長大な時間も退屈することはないのです。でも感動したか、といえばそうではない。演奏の所為じゃありません。どんな演奏で聴いても、どうもメシアンには引っ掛かるんですねェ。
これはズバリ言ってセックスの音楽でしょ。あんまりこういうことは書きたくないのですが、そうなんだから仕方ない。
トゥーランガリラは合成語で、トゥーランガ+リラですね。トゥーラン・ガリラじゃない。で、リラは「愛と死」だそうです。愛と死と言えば「トリスタンとイゾルデ」ですが、そういう部分もある。というより、ずっと露骨ですよね。
第1楽章が始まって直ぐにトロンボーンとチューバが吹き鳴らすテーマは「彫像の主題」といって、メキシコかどこかのモニュメントから連想したということになっています。でもコレはね、男性のシンボルでしょ。全体を通じて何回も出てくる。
これに対称的に置かれているのが、クラリネットに出る「花の主題」。花は植物の性器ですよ。メシアンの着想はランの花だそうですが、ランは性器の中の性器。女性のシンボルです。
これが露骨に合体するのが第6楽章の「愛の眠りの園」。オンド・マルトゥノと弱音器を付けた弦楽合奏がユニゾンでいかにも、を連想させる「愛の主題」を延々と続ける。美しいメロディーには違いないけれど、どうもねェ~~~。
それを見つめる鳥たち(ピアノ・ソロ)・・・。
あんまり書きたくないからこの辺でヤァメた。
最後に楽器編成。大編成ですが、基本的には3管。現在では珍しくもなくなってしまいました。ただ打楽器がやたらに多い。ガムラン音楽をイメージしているせいでしょうか、金属性の音質を出すものが多いですね。私の席からはよく見えませんが、打楽器奏者は何人いましたか?
メシアンは5人で演奏できるように楽章毎の組み分けを明示していますが、別資料では11人という表記もあります。打楽器の代表、ティンパニが使われていないのも注目ですね。
弦楽器はメシアンが指定していて、順に16-16-14-12-10です。この日は指示どおりの人数が揃っていたようでした。従ってエキストラがたくさん入っていたと思いますが、ヴィオラに思いも掛けない顔を見つけました。だれ、と書くわけにはいきませんが、チョッとビックリしました。
それにしても大変な曲ですね。よくやるよ。
最近のコメント