半世紀振りの「フィガロの結婚」

昨日は「オペラの日」、ということで素直にオペラを堪能してきました。オペラの日って何? と思いましたが、明治27年の11月24日に日本で初めてオペラが上演されたとのこと。現藝大の奏楽堂、グノーの「ファウスト」第1幕だったそうですが、昨日楽しんだのはオペラの中のオペラ、モーツァルトの「フィガロの結婚」です。
舞台は日生劇場、思えば日生劇場は今から49年前の1963年にベルリン・ドイツ・オペラの公演で開場し、来年で50周年を迎えます。今回はそれを記念しての公演、今年と来年の2シーズンに亘って、ベルリン・ドイツ・オペラに縁の演目が上演されるのですね。
杮落しはベートーヴェンの「フィデリオ」でしたが、「フィガロ」はその時に同じカール・ベームの指揮で上演された記念の演目。私はフィデリオもフィガロも、当時は珍しくも民放がライヴ中継で放送したテレビで観戦。本格的なドイツ・オペラの初体験となったのでした。

今回は、日生劇場としては21年振りの新演出とか。懐かしいゼルナー演出が脳裏をかすめます。新演出は以下の布陣、私が接したのは2日間公演の2日目でした。

アルマヴィーヴァ伯爵/森口賢二
伯爵夫人/田口智子
フィガロ/大山大輔
スザンナ/新垣有希子
ケルビーノ/堀万里絵
マルチェッリーナ/穴澤ゆう子
バルトロ/境信博
バジリオ/寺田宗永
クルツィオ/加茂下稔
アントニオ/大久保光哉
バルバリーナ/全詠玉
花嫁/後藤真美・藤長静佳
 合唱/C.ヴィレッジシンガーズ
 管弦楽/新日本フィルハーモニー交響楽団
 指揮/広上淳一
 チェンバロ/平塚洋子
 演出/菅尾友

時期は紅葉真っ盛り、少し早目に家を出て、日比谷公園の大銀杏を眺めてから劇場に向かいます。

先ずプログラム一冊1000円也を購入しますが、何となく手触りが違います。直ぐに判明しましたが、表紙から裏表紙にかけて凹凸印刷されているのは、今回の演出で使われる3階建てマンション風の舞台装置を模ったもの。
第2幕と第3幕の間に一度休憩が入る公演は、全幕を通してこの3階建てが舞台として使われるのでした。

序曲。いきなり登場人物が夫々の衣装で登場してきます。今流行の現代風衣装、あるものは携帯電話を持ち、別の一人はタブレット(この名称で良いんですかね?)で周囲を映し出す。それが同時に舞台上にも映し出されるのは、如何にも新しさを強調するよう。
時折客席から拍手が起きるのは、既に前日の公演を観た人なのか歌手の知り合いか。はてまたサクラを使った演出なのか。

どうも馴染めないなぁ、と不満顔で第1幕がエンディングを迎えました。

しかしここからですよ。本公演の真価が発揮されていったのは。いや違うな、私が演出の真意を理解したのは、というべきでしたね。
何しろ何の事前情報も無く、プログラムにも目を通す時間がないままにスタートした舞台。見落としもありましょう、記憶違いもあるでしょう、当方の頓珍漢な解釈があるかも知れません。それでも思いつくままに記録しておくと、

例えば携帯電話はモーツァルトの時代はもちろん、50年前でもその存在を予測することが出来なかった小道具。しかし例えばヒソヒソ話や内緒話は、これを使えば場所的に離れていても伝わるということ。この利便性を利用した演出が随所に登場します。
タブレットの扱いも同じ。客席では見ることが不可能な場面を、この道具を使って客席からも見ることが可能になる。歌手の表情など、客席から見えなければほとんど気づかれぬものが、舞台に大写しされてしまう。どんな小さなシーンでも、歌手は演技を疎かにすることは出来ないのです。

一見すると単に新しがりを誇示しているように見える演出も、実は細部にまで拘る菅尾演出の緻密さが隠されているのでした。

第1幕の最後、有名なフィガロのアリアの中で鉄砲の音を何度か加えます。更に3階に狩猟姿の伯爵を立たせるることによって、第2幕が伯爵の不在を前提として進められることが初めてフィガロに接する観客にも判るように仕掛けられているのでしょう。
第3幕の終わり、パーティーの場面には突然の嵐が襲います。これは第4幕でバジリオが歌うアリアの内容を先取りしたもの。一見唐突に見えるアイディアも、実は張り巡らされた伏線の一つだと理解しました。

何よりこの公演が引き立ったのは、フィガロを単なる喜劇にしなかったこと。それは通例ならカットするマルチェリーナのアリア(第24番)と前出バジリオのアリア(第25番)を復活させたことで窺い知ることが出来ます。
この2曲は、夫々女性の立場と男性の立場から異性に対する互いの立場を本音で語ったもの。ここには人間の美しい面とは正反対の醜さが見事に描かれているのです。演出では、グロテスクな人形や嘔吐の様を添えることによって、舞台が引き締まります。
1階部分を中心に進められる第1幕、2階から始まって全階に場面が拡大して行く第2幕。舞台後方に設定された庭が舞台となる第3幕、暗い舞台後方に人を配して動きを作り出すフィナーレと、観客は次第に広がっていく舞台進行に思わず引き込まれて行くのでした。

清濁併せ呑むモーツァルト/ダ・ポンテの人間ドラマを見せることによって、舞台も音楽も深みと厚みを増したことに思い至らなければいけません。

初めて接する歌手も多数ありましたが、全て適材適所。思えば50年前の日本人によるオペラ公演は、歌は良いけれど芝居はサッパリという状態でした。そんな中でベルリン・ドイツ・オペラが日生劇場で見せた公演は干天の慈雨。初めてオペラの神髄に触れた人も少なくなかったでしょう。もちろん私もその一人。
その時は“オペラが判った”と感じたものでしたが、実はそれは単なる入口に過ぎませんでした。あれから50年、日本人だけによる公演が、更に一層モーツァルトの神髄に迫り、聴き手にあの時以上の感銘を齎したことに感謝しなければいけません。

その間、この日の公演に携わった方々も含め、数多くの音楽家たち、芸術家たちがコツコツと積み重ねてきた努力にも思いを馳せなければいけません。

日生劇場の50年は、日本楽壇全体のレヴェル・アップの半世紀でもありました。ゼルナー、ベーム、フィッシャー=ディスカウ等の錚々たる芸術家たち全て個人になってしまいましたが、その音楽作品に奉仕する姿勢は、現在も立派に我が芸術家たちに受け継がれています。
次の50年に向け、更なる発展の場として日生劇場が活躍の場を提供し続けていくことを祈念せずにはおられません。

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1件の返信

  1. 岡山尚幹 より:

    日生劇場の杮落しの舞台中継を担当した元フジテレビの岡山です。日本フィルの佐々木氏から貴殿の日生劇場50年記念公演のレポートがUPされているのを知らされ、拝見しました。演出などについての評価や杮落し公演とその後日本に与えた影響などの素晴らしい文章に接し、懐かしさや日本のクラシック音楽の対する考えを含め、一言お礼を述べたくなりました。フィッシャーディスカウ・グリュンマー・ワルターベリー・マチスたちの歌声が今も耳に残っています。ありがとうございました。

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