日生劇場「アイナダマール」
先週末、11月15日と16日に日生劇場でオスバルド・ゴリホフ(1960-)のオペラ「アイナダマール」が日本初演されました。私は15日の公演を聴いてきましたが、そのレポートです。
普通なら聴いた翌日にアップするのが私の習慣ですが、翌日から月曜日まで所用で京都に出掛けており、日記の更新が遅れた次第。土曜日の感動を思い出しつつ綴っていくことにしましょう。
ゴリホフと言っても、アイナダマールと訊かれてもピンと来ない音楽ファンも多いでしょう。ゴリホフが日本に紹介されたのは僅か20年ほど前のことで、それも録音された室内楽だった由。余程の室内楽ファン、現代音楽オタクでもない限りは目に留まることは無かったでしょう。
最近になって漸く知名度が増し、今年のサントリー室内楽の庭で「ラスト・ラウンド」がパシフィカ+エクによって紹介された辺りから一般のクラシック・ファンにも馴染の存在になってきました。私が彼の作品を初めて聴いたのは2006年12月にボローメオ・クァルテットが「テネブレ」を演奏した時で、その際の日記でゴリホフを簡単に紹介しています。
1960年アルゼンチン生まれと言えば南米の作曲家ということで一括りされてしまいそうですが、出自や教育も極めて多面的で、その作風を一言で纏めてしまうことは不可能でしょう。オペラ「アイナダマール」は2003年にタングルウッド音楽祭で初演され、CD録音がグラミー賞を受賞したことで世界的にブレイク、日本でも上演が待たれていた代表作でもあります。私が今回の上演を知ったのはアカデミアのホームページ、序にスコアとCDで予習して本番に臨みました。
オペラの題材は、スペインを代表する詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカがスペイン内戦で殺害された事件を中心にしたもの。ロルカについてはルイジ・ノーノに「フェデリコ・ガルシア・ロルカへの墓碑銘」という作品があり、遥か昔にそれを聴いた際に少しばかり齧ったことがあります。確かNHK(?)でそのドキュメントが放送されたことがあり、ロルカの名は多少の馴染もありました。
私が体験した初日のキャスト等は、
マルガリータ・シルグ/横山恵子
ヌリア/見角悠代
ロルカ/清水華澄
ルイス・アロンソ/石塚隆充
ホセ・トリバルディ/加藤宏隆
闘牛士/柴山秀明
教師/狩野賢一
合唱/C.ヴィレッジシンガーズ
管弦楽/読売日本交響楽団
指揮/広上淳一
演出/粟國淳
他
成功した歌劇の場合はどれもそうでしょうが、オペラ「アイナダマール」は台本が秀逸。デイヴィッド・ヘンリー・ウォン(プログラムには日本初演に寄せてのメッセージが掲載されており、必読の読み物)はロルカの時代(1936年)、ロルカのシンボルだった自由主義者マリアナ・ピネーダの時代、そしてロルカの死後もその戯曲を演じ続けた女優マルガリータ・シルグの時代(1969年)の3つの時代を時空を超えて行き来するという構成を採用しています。
ピネーダ(1804-1831)の時代そのものはオペラには登場しませんが、今回の粟國演出では舞台中央にヴェールで包まれた銅像としてその存在が意識されています。ピネーダは27歳で処刑(グラナダのジャンヌ・ダルクと呼ばれた)され、ロルカ(1898-1936)も38歳で殺害されたことが、“二人の生涯がそっくりになる”というマルガリータの台詞にも繋がるのです。
オペラそのものは全3景から成る1幕で、全体に切れ目や休憩は入りません。80歳になるシルグ(1888-1969)が、後継者たるヌリアにロルカとの出会いを語り始める所からオペラが始まります。
以下詳しいストーリーを紹介するスペースはありませんが、第1景「マリアナ」、第2景「フェデリコ」、第3景「マルガリータ」と上記3つの時代が回想され、時には「今」の時代にも時空を超えて展開する。今回はスピーカーを通して歌われる場面と、ナマの声による場面とが微妙に入れ替わり、これも時代を超えるストーリーを巧みに象徴しているように聴きました。
各景は更に細かい「場面」に区切られ、その成り立ちはまるでバッハの受難曲を連想させるよう。
冒頭はアイナダマール(アラビア語で「涙の泉」の意味)を意味する水の音と、処刑を意味するような馬の蹄の音が電子音風にコラージュされて開始。第2景と第3景の間は、処刑する銃撃音がそのまま間奏曲を形成する奇抜なゴリホフのアイデア。2台のギター(智詠、フェルミン・ケロル)とカホン(朱雀ハルナ)という特殊な楽器を加えたオーケストラに、シンセサイザー(平塚洋子)も駆使する独特な音楽は、如何にも一つのスタイルに捉われないゴリホフ・ワールドの独壇場でもあります。
最後は、自由を讃えるマルガリータ、ロルカ、ヌリアの美しい三重唱が歌われ、再び水の音の電子音で締め括られます。少女たちの“石までも泣かせるグラナダの悲しい日、弔いの鐘が鳴る”という合唱が最初と最後にあたかも額縁の様に置かれ、作品に統一感を与えていました。
作品そのもの同様、今回の演出にも様々な仕掛けが施されており、とても一度観た、聴いただけで全てを理解するのは困難です。
それでも、最後に第3景の「ぼくの泉からきみは湧き出る」でロルカが登場した時には、中央に置かれていたマリアナ像にいつの間にかロルカが入れ替わっており、マリアナとロルカが合体したことを暗示しているのでは、と納得。
またヌリアが、最後の場面ではシルグの衣裳を持って登場。ロルカの意思がシルグからヌリアに継承されたことを意味するのだろう、とも考えました。
驚かされたのは、ロルカの殺害者であるアロンソがスペインの古典芸術でもあるフラメンコ歌手(石塚の圧倒的な歌唱!)で歌われること。プログラムの解説(長木誠司氏)では、ロルカがスペイン自体によって殺されたという解釈もあるようです。
処刑の場面、舞台天井から死体の様な「物体」がドサリと落とされるシーンも衝撃的。この物体が繙かれると、死刑宣告書(?)の大きな文書に変身して行くのが秀逸でした。
最後に、このオペラの主人公は誰なのか? メゾ・ソプラノに充てられたロルカ? それとも明らかに中心として描かれるマルガリータ・シルグ?
今回の演出では、最後に踊るダンサーたちが一歩一歩踏みしめるように前進し、斃れる。それでも再び立ち上がって歩みを始める姿の中央には、明るい照明が客席を射抜くシーンがありました。
オペラの主役は、実は「自由」そのものであり、何度斃れても倒されても立ち上がっても自由を求めて歩む「人間」そのものではないか、と考えた次第。
“われわれの敵である革命の種を、われわれは殲滅せねばならない たとえ母親の胎内にあろうとも”、“ぼくはね 爆発の合間で歌いたいのさ”、“彼はほかの大勢の者が武器を使ってしたより もっとたくさんの悪事をそのペンで働いたのさ”という台詞は、何時の時代、何処の世界であっても繰り返されてきた事実。
この普遍性があるが故に、このオペラは傑作と讃えられる資格があると思います。過去に何処の国でも起きたこと、残念ながらこれからも繰り返されるであろう悲劇だからこそ、ゴリホフの音楽も、ウォンの台本も長く継承されていくのでしょう。
オペラは日本語では「歌劇」と訳されますが、敢えて「オペラ」としたいのは、正にアイナダマールが美術・照明・衣裳・振付・音響・映像などを総動員した総合芸術だったから。夫々のパートにベストを尽くしたキャスト全員を讃えたいと思います。
今回の上演は、日本では余り知られていないロルカがテーマ、スペインの内戦(1936-1939)が舞台ということもあり、最初に第1部として『魂の詩人ロルカとスペイン』としてプロローグが上演されました。
田尾下哲の台本と構成、長谷川初範の演ずるジャーナリスト、柴山秀明(闘牛士役も兼ねる)のロルカ、三枝宏次の3人による導入は、第2部のオペラを理解するうえで大いに参考になりました。舞台も発声が明瞭で、演技も最高級。
公演は2組のキャストが夫々1回づつ。馴染の無いオペラでは止むを得ないでしょうが、2日間の公演だけで終わるのはいかにももったいないと思います。再演の機会があることに期待。
歌唱、指揮とオーケストラ、演出も、ゲネプロを聴いたゴリホフ自身が“これまでで最高の上演”と太鼓判を押したほど、極めて高いレヴェルのパフォーマンスだったことも大言しておかねばなりますまい。
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