日生劇場「ドン・ジョヴァンニ」

3年前にフィガロの結婚で素晴らしい舞台を展開してくれた日生劇場、今年は同じモーツァルトのドン・ジョヴァンニを上演すると言うので有楽町に向かいました。フィガロと同じ指揮者、同じ演出家ということで期待が高まります。
同劇場の「NISSAY OPERA」は、質の高いオペラを低廉な料金で提供し、若い人たちにも鑑賞の機会を与えるということが事業の大きな目標。今回も先ず学生向けの公演からスタートし、14・15日の二日間はダブル・キャストで一般公演が行われました。
私が聴いたのは15日の二日目、前日の雨が上がり、昼前からは太陽も顔を出す晴れやかな午後のオペラです。

モーツァルト/歌劇「ドン・ジョヴァンニ」
 ドン・ジョヴァンニ/池内響
 騎士長/峰茂樹
 ドンナ・アンナ/宮澤尚子
 ドン・オッターヴィオ/望月哲也
 ドンナ・エルヴィーラ/柳原由香
 レポレッロ/青山貴
 マゼット/金子亮平
 ツェルリーナ/鈴木江美
 合唱/C.ヴィレッジシンガーズ
 管弦楽/読売日本交響楽団
 指揮/広上淳一
 チェンバロ/平塚洋子
 マンドリン/青山忠
 演出/菅尾友

主催するニッセイ文化振興財団の方針には舞台芸術を支える俳優・歌手・演出家・舞台技術者の育成も挙げられていることから、キャストはオーディションで選ばれた面々。オッターヴィオの望月、レポレッロの青山以外は、私は初めて接する歌手たちでした。
しかし彼等若手出演者たちの素晴らしかったこと、正直に言ってこれ程の水準でドン・ジョヴァンニを楽しめるとは思いませんでした。音楽家諸氏はもちろん、舞台を陰で支えてくれたスタッフ全員に称賛を捧げましょう。

前回のフィガロでは3階建て舞台で成功した演出の菅尾氏、今回はどんな舞台を創り出したのでしょうか。先ず感想はここから始めましょう。
音楽が始まる前から、この演出は客席に驚きを提供します。

通常オペラは、オーケストラがチューニングを始めると客席の照明が落とされ、人々が静まった所に指揮者が登場し、拍手、というパターンで始まります。
しかし今回は違っていました。指揮者は最初から指揮台に立っていて、チューニングはそのあと。未だ客席の照明は明るいままで、いつ消灯されるのかと訝しく思っていると、指揮者がサッと棒を(この公演では広上は指揮棒は全く使いませんでしたが・・・)振り下し、二短調の第一発が炸裂すると同時に照明が消されたのです。
これはかなり衝撃的な開始法で、どんな舞台が待っているのかと、人々の関心はいやが上にも高まります。

序曲がアレグロに突入する所で幕が上がり、舞台。そこには階段がいくつも交差し、直ぐに登場人物たちが慌ただしく階段を行き来します。テロップにはその度に登場人物の名前が掲示されますが、よくテレビ中継などに見られるキャスト紹介みたい。
そして歌劇は、ほぼ全編がこの階段上で展開し、歌われて行くのでした。この辺りは前回の3階建てフィガロとの共通点か。歌手たちがいわゆる舞台の床面に立つのは、最後の地獄落ちが終わった後で残った面々が夫々に今後の身の振り様を歌うフィナーレのみ。
恐らく、これも演出家の意図なのでしょう。ドン・ジョヴァンニを中心に繰り広げられる悲喜劇は「非日常」の世界で、主役が去って漸く全員が日常を取り戻す、と考えられなくもない。少なくとも私は、そう理解しました。

この複雑に入り組んだ階段は二つの幕とも共通で、これが右に、あるいは左に回転します。時にはゆっくり、ある場面ではやや早く。最初はこれが煩わしく感じられたのも事実ですが、次第にその巧妙さに舌を巻いてしまいました。
階段は、その回転する角度によって行き止まりになったり、舞台裏との懸け橋になったりもします。これがアリアの最中でも回転し、ある場面では追い詰められる情景を表したり、別の個所では舞台から去る道具にもなる。これが場面ごとに見事に計算されていて、チョッとでも間違えればストーリーとの整合性を欠くことにも繋がるでしょう。
私が見た二日目は、このタイミングは完璧でした。相当数のリハーサルが繰り返されたでしょうし、何より本番で見事に成功させた舞台技術の面々の緻密な技術にも敬意を表すべきでしょう。

第1幕冒頭、騎士長殺害の場面は、騎士長が突き付けたピストルがドン・ジョヴァンニと揉み合う内に暴発するという設定。死んだ騎士長は暫くして自ら立ち上がり、ガウンを脱いで白衣のまま立ち尽くす。白衣の騎士長は、その後もドン・ジョヴァンニの悪行の現場を見下ろすという形で何度も黙役として出現し、単にドンナ・アンナの父親という以上の象徴的存在として扱われているようでした。
この演出では登場人物全てが厚塗りのメイクで登場し、特に女性陣には目の周りの隈取に色分けを施すという仕掛け。私は最後までこの意味を理解できませんでしたが、黒い縁取りのドンナ・エルヴィーラ、紅色のドンナ・アンナなど、人物のキャラクターを表現していたのかも。

そして絶大な効果を上げていたのが、照明と音響。ドン・ジョヴァンニに改心を迫る騎士長の声には、この世のものではないという感じを出すために機械的なエコーが施されていましたし、雷鳴を演出する音響効果も見事。純粋な楽音を更にサポートする技術も、正に現代のハイテクを駆使したものだと感心しました。その技術者たちの存在も忘れてはなりません。
特にこの個所だけ垂れ下がる糸状の垂れ幕に騎士長の姿が映し出され、ドン・ジョヴァンニの地獄落ちと亡霊の不気味さを客席にも強く印象付ける手法は、思わず息を呑むほどに優れたもの。
この圧倒的なフィナーレのあと、レポレッロ以外の登場人物が客席から登場して更に聴き手を驚かせます。それまで舞台に釘付けになっていた目と耳は、突然後ろから響き渡る声に二度ビックリというサプライズを創り出していました。

そして歌手たち。最初に記したようにそのほとんどは初めて聴いた新人たちでしたが、適材適所と言うか全員のレヴェルは音楽的にも演技的にも極めて高く、改めて日本オペラ界の層の厚さに頼もしさを感じます。
タイトルロールの池内響は背も高く、身のこなしも正にドン・ジョヴァンニそのもの。一歩間違えれば怪我にも繋がりかねない階段をヒラリ、ヒラリと渡り歩きます。最後の地獄落ちは、階段を何段も転げ落ち、芸術的センス以上に肉体的能力が要求されそう。誰でも出来る芸当ではないでしょう。
もちろんバリトンとしての歌唱も抜群で、新たなスター誕生を予感させました。

ドンナ・アンナの宮澤、ドンナ・エルヴィーラの柳原、ツェルリーナの鈴木と3人の美女軍団も夫々に歌唱力が光り、今度は素顔でその歌声に接したいと思います。もちろん望月、青山の旧知も夫々に新境地を拓いていましたし、峰、金子の二人も何れまた別の役で接することがありそう。

最後になりますが、やはり忘れてはならないのが広上マエストロと読響の実力。今回はバロック・ティンパニを使っていたようで、古楽器風の音創りが作品の正確にピタリと嵌り、圧倒的な迫力を弾き出していたのが驚異でした。
ツェルリーナのアリアを支えるチェロ・ソロの見事な演奏、とりわけ良く響く木管楽器のバランス、例え伴奏に過ぎない持続音であっても神経が隅々まで行き亘っている広上の指揮。何処を取っても何不足ないばかりか、今まで聴いたことも無いような「血の通った」ドン・ジョヴァンニに圧倒されっ放しです。
要所を支えた平塚のチェンバロ、2幕冒頭でドン・ジョヴァンニのセレナードを伴奏した青山のマンドリンなど、名脇役にも事欠きません。最後のカーテンコールで広上がガッチリ握手を交わしたプロンプター氏の存在も・・・。

おっと忘れる所でした。今回は第2幕の8b、通常はカットされるレポレッロとマルツェリーナの二重唱も復活される完全版であったことも付け加えておきましょう。

私は二日目しか聴けませんでしたが、恐らく初日も同じレヴェルだったと想像します。これほどの公演なら、もう一度見て、聴きたかったし、繰り返し聴けば細部についてより理解を深められたでしょうに。
2015年秋に一度だけ上演されたドン・ジョヴァンニとして記録されるだけでは、如何にも勿体無いと感じられたニッセイ・オペラでした。

 

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