これぞ第9
12月27日、新日本フィルの第9です。
第9の印象を書く前に、シチェドリン「ベートーヴェンの第9交響曲のための前奏曲」。
何度か楽譜を見ていて気が付いたのは、楽器編成がベートーヴェンの第9と全く同じだということ。もちろん打楽器はベートーヴェンでは使わないものがたくさんありますが、奏者は3人で済む(ティンパニは除く)。
次に曲の終わり方が、そのまま第9に繋がるように配慮されているらしいこと。空虚5度の刻みの上にティンパニがタ・タン、という下降動機を叩きます。第9の冒頭と同じですね。
空虚5度は長調に行くか短調に進むか判りません。いわば聴く人に不安を覚えさせるのですが、ベートーヴェンの場合は最終的には歓喜に解決します。
シチェドリンは不安のままで終わる、というより、ソ連時代には西側音楽が歪められて提供されていた、あるいは禁止されていたことを皮肉っているようにも聴かれましたね。
開始して暫く、低弦とファゴットがいかにも第9の歓喜のテーマを連想させる音型を奏する所があります。似ているようで似ていない。私は逆行形か裏返しかと思ってスコアを逆さにしたり、鏡に映して見たりしましたが、どうもそうではない。似ているけれども本物ではない。何か意味がありそうですね。
あとは鐘。ロシアの生活では鐘が重要な役目を果たします。音楽が3拍子に変わり、終結も近くなったあたりにある頂点で様々な打楽器が鐘を鳴らします。スコアにも「教会の鐘のように」という指示があるのです。ここも大切なメッセージであろうと確信しました。
私はこの曲を二度聴いたことになりますが、開演前にファゴット奏者が例の部分をさらっているのを聴き、“あっ、シチェドリンだ”と気付いたほど、2週間前の体験が耳に残っていました。繰り返し聴く、というのは想像以上に効果があるものなんですねぇ。
さてベートーヴェンの第9。
前回はサントリーホールの1階右端、今回はすみだトリフォニーホールの2階正面。一長一短はありますが、やはり正面で聴く演奏は音楽がストレートに伝わってきます。
読響の第9がオーケストラ作品としての演奏であったとすれば、こちら新日本フィルの第9は、合唱作品という印象が強く残りました。
隣で聴いていた方は私より大分年配で、クラシック音楽の演奏会にはあまり縁が無いような感じでした。恐らく地元の方、第9ということで聴きに来られたのでしょう。
この紳士が、演奏が終わるや否や椅子から跳び上がりまして、思わず“ブラボォ”と絶叫したのです。隣の奥様が服を引っ張りまして、“恥ずかしいから、およしなさいっ”。
“こんな凄いもの聴いたことナイっっっっ!! いいんだヨ”。
これが全てでしょう。
曲が進むに連れて会場全体が演奏に惹き込まれ、ホールが水を打ったような静けさと緊張感に包み込まれていくのが目に見えます。これこそ音楽の力であり、第9の凄さです。
声楽も器楽も歓喜を声高に絶叫するのでなく、大言壮語するのでもない。只管ベートーヴェンが書き付けた音符とシラーが詩に託したメッセージに奉仕していく。
もちろんこの第9をここまでの高みに引き揚げた功労者は存在します。しかしその名前をいくら称揚しても意味が無いようにも思えるのです。
言えるのは、この場に参加したメンバー唯一人が欠けてもこの夜の感動は生まれなかった、ということではないでしょうか。
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