強者弱者(169)

月見

 十五夜の月見。縁近く七草の盆栽など置きて団子に草々の果物などかざり供へ一家うちまどゐて待つほどに、露重き横雲のひまより萬傾のいらかを抽きてほのめき出でたる月の光、電柱の上に、土蔵の屋根に、物干台の間に、火の見櫓の下にかゝりて山間海辺にて見たるけしきと自ら別種の趣あり。場末の家にて刺のまゝなる栗、枝のまゝなる柿などそなへて月まちしたるもよし。
 築地あたりにて見る月、黒きゴシック風の塔にかゝりてさし潮の水に落ちたるけしき、ロングフェローの詩そのまゝなり。町より町に架したる小さき橋のおばしまより、俯して水の面をながむるに、芥、逆に流れて月の光に影あり。おぼこの群れか、波紋影をみだして暗に声あり。中洲、代地など水多き町々の月、情趣築地のそれに劣らず。
 単調にして機械的なる一日の労働に倦みつかれて、郊外の家に帰り行く小官吏、小事務員が山手線の電車の窓より坐らにして見る芝浦の月のけしき、無為遊食の人の曾て知らざる自然の慰藉とやいはん。
 小石川の原町、林町、本郷の曙町、千駄木町など森ふかき町々、たそがれより寂寞として人影絶え、月も木隠れに見えざれども、遠くまた近く一斉に書生の漢詩など吟ずる声の聞えたるに、月の上りたるを知りたるもをかし。高台の家にて月を待つに、その地平線を離るゝと共に嗟嘆の声、一斉に遠く崖下の市より起りて何となく物騒しく聞えたるも流石に大都のおもむきなり。

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十五夜の月見は、旧暦8月15日の月見のこと。今年(平成22年)は9月22日に当たりますから、話題としては2週間ほど早いことになりますね。
十五夜の望月を仲秋の名月というのは、太陰暦の秋が7・8・9月で、夫々が初秋、仲秋、晩秋とされるから。8月の十五夜は満月が見込まれ、今年の場合は9月23日が満月です。
新暦に当て嵌めては何の意味もない習慣でしょう。

「露重き横雲」の「横雲」(よこぐも)とは、横にたなびく雲のこと。月見の絵に描かれる雲の形そのものです。
一方、「露重き」は想像ですが、今の季節は二十四節季の「白露」。そろそろ朝露を結ぶ時期を表現したものでしょうか。

「刺」は「とげ」ではなく、「いが」とルビが振られています。

「さし潮」(さししお)は、「上げ潮」のこと。

ロングフェローの詩とありますが、具体的にどの詩がイメージされているのかは不明です。

ロングフェロー Henry Wardsworth Longfellow (1807-1882) は「人生讃歌」や「ハイアワサの歌」で知られるアメリカの詩人。中でも「ハイアワサの歌」は、当時アメリカに移住していたドヴォルザークに感銘を与え、新世界交響曲の第2楽章のテーマに昇華したとも言われています。

このメロディーには我が国でも“家路”のタイトルで日本語の詩が付けられたように、日本人の共感を呼ぶ趣を備えているのでしょう。個人的な感想ですが、つい2日前に新世界交響曲を聴いた耳には、月見の情景が浮かばないとも言えませんな。

「芥」(あくた)は、ゴミや塵の総称。

「おぼこ」は、ここでは素直に少女の意味でしょう。ボラの幼魚と解釈できなくもありませんが、声あり、と続いていますからね。

「無為遊食」(むいゆうしょく)は、文字通り「何もせず、仕事にも就かずに遊んで暮らす」こと。明治末年には、まだこのような優雅な人々が生き残っていたのでしょうか。

「慰藉」(いしゃ)は、慰め、労わること。

「嗟嘆」は「さたん」。「嘆く」の意味です。

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