日生劇場の「オルフェオとエウリディーチェ」

昨日の土曜日、有楽町の日生劇場でオペラを見てきました。当劇場が1979年から継続している「青少年のための日生劇場オペラ教室」の一回で、一般公開の初日です。

キャストはダブル・キャストになっていて、私が見たのはオルフェオをアルト歌手が歌うチーム。日曜日にはバリトンが担当するチームの一般公開があり、それが千秋楽です。
オペラ教室としては10日からの3日間開催され、バリトン・チームが2回、アルト・チームが1回の公演が行われました。
役を持つ歌手は3人だけで、合唱と重要な役割を与えられているダンサー(6人の男性)は各回共通です。

アルト・チームのキャストは、

グルック/歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」
 オルフェオ/手嶋眞佐子
 エウリディーチェ/佐藤路子
 アモーレ/佐藤優子
 管弦楽/読売日本交響楽団
 合唱/C.ヴィレッジシンガーズ(合唱指揮/田中信昭)
 チェンバロ/服部容子
 指揮/広上淳一
 演出/高島勲
 美術/ヘニング・フォン・ギールケ
 振付/広崎うらん

私がこのオペラをナマの舞台で見るのは、恥ずかしながら初めてのことです。日本の音楽史やオペラ史を紐解くと必ず出てくるのが、我が国の日本人による最初のオペラ公演が「オルフェオとエウリディーチェ」だったこと。つまりこの歌劇こそ、日本のオペラの原点となったわけ。

実は事前に多少の不安がありました。一つは、今日では感覚的に古くなったオペラを現代でも楽しめるか、ということ。グルックの作品と言えば、リヒャルト・シュトラウスが「カプリッチョ」の中で引用しているように、時代遅れの音楽という思い込みがあるからです。

もう一つは、チラシ等で謳われていた「ウィーン版」による上演ということ。確かこのオペラはパリで再演するとき、グルック自身が時代の好みに合うように改訂したパリ版も存在するはずです。例の有名な「精霊の踊り」にしても、より華やかなバージョンが単独で取り上げられています。最も古いオリジナルの版で果して楽しめるのか…。

ここ二日間、版が話題になったオーケストラ公演を続けて聴いてきましたから、ここでまた版が問題になるオペラに遭遇するとは、ね。

結論。

不安は杞憂に終わりました。舞台は極めてシンプルでしたが、音楽そのものが美しく、退屈する瞬間のない2時間でした。

思い出すままにポイントを羅列すると、

3幕仕立てのオペラですが、本公演では全体を二つに分け、第2幕第1場と第2幕第2場の間に休憩が入ります。

舞台はテーブルと椅子が数脚置かれているだけの単純なもの。奥に扉の付いた壁のようなものが立てられています。エウリディーチェの墓(第1幕)も、地獄(第2幕)も装置としては出てきません。
場面の転換等は、映像を映し出して「らしく」見せる仕掛け。最近よく使われるアイディアです。

序曲が終わって幕が開く、というスタイルではなく、序曲の間は舞台でパーティーが演じられます。これが最初に面食らうところで、この宴会は何を意味しているのか。

序曲が終わると空白が訪れ、「コチ、コチ」という大きな機械音が鳴り出します。またしても???
そしてパーティーに興じていた人々が、テーブルと椅子を静かに横たえる。

しかしこれが何を表しているのかは、直ぐに判りました。即ち「コチ、コチ」は時間で、小道具が寝かされたままになるのは、その間は時間が止まっているということ。これから行われるオルフェオによるエウリディーチェ救出劇が、止まった時間の中で展開するという意味なのでしょう。

それが証拠に、歌劇のフィナーレで「目出度し、めでたし」となった後に小道具は元に戻され、冒頭のパーティーが再開されるのです。そしてこのパーティーがオルフェオとエウリディーチェの結婚披露宴だったことが、最後の最後で明らかにされる仕掛け。

第1幕からそのまま続けられる第2幕の「地獄」は、バカでかいポリ袋のようなものが被せられることで表されます。
その無機質なノイズが多少気にならないでもありませんが、踊りの要素をタップリ取り入れた合唱と、活気溢れる雄弁なオーケストラ演奏が手に汗を握らせます。
この公演のために特別に訓練した(と思われる)ダンスと、才女・広崎の振付が見事。個人的には、6人の男たちの引き締まった上半身がうらやましい~。

前半の最後(第2幕第1場)、舞台から客席に向かって発射される強烈な光。これが何を象徴していたのかは、残念ながら鈍感な私には理解できませんでした。(メッチャ眩しかったなぁ~)

後半は有名な精霊たちの踊りで幕が開きます。このバレエ音楽を聴いていて、これが正真正銘ウィーン版による上演だ、ということが判りました。グルックがパリ版で付け加えた後半部は出てきません。

ここで漸く登場するエウリディーチェは、いわば「美味しい役」でしょうね。全編ほぼ出ずっぱりのオルフェオ役に比べれば出番は僅かですし、ドラマティックな嘆きの歌で聴き手の耳を惹き付けられるから。
この日のキャスト・佐藤路子は、びわ湖ホール声楽アンサンブルの一員で、スリムで長身の美声。

主役と言うべきオルフェオの手嶋眞佐子は、最後の名アリア「われエウリディーチェを失えり」で客席からの喝采を受けます。

最後はコミカルな役割を与えられたアモーレの佐藤優子に弄ばれたかのように、悲劇は一転して喜劇に変貌。先に書いた結婚披露宴に流れ込むのでした。

ここまで見てくると、いや聴いてくると、このオペラの本質は何なのかという疑問も生じてきますね。
ストーリー(というかオルフェオ神話)は、不思議なことに古事記のイザナミ・イザナギにそっくり。オルフェオの悲歌は、良く聴いていると、ロッシーニが喜劇(セヴィリアの理髪師)で引用しているようにも思えてきます。

「オルフェオとエウリディーチェ」が最初に日本で受容されたのは、ストーリーの親しみ易さもさることながら、明治という時代の雰囲気にも適していたのでしょう。三浦環が歌ったというエウリディーチェも、資して西洋歌劇受容に貢献したのかも知れません。

今回のプログラム誌には筆者名が記されていませんでしたが、解説、特に日本における上演史は実によく調べていて感心しました。
そこで触れられていた森鴎外訳の台本。訳者生存中は実現しなかった上演が91年後に蘇った時、指揮を受け持ったのは、確か前日の日本フィルで素晴らしいブルックナーを振った高関健だったのじゃないかしら。

プログラムに挟まれていたチラシによると、日生劇場は2013年10月に開場50周年を迎える由。
それを記念してアリベルト・ライマンの現代オペラ2作品(「メデア」と「リア」)の上演と、杮落しを飾った「フィガロの結婚」と「フィデリオ」の上演も決定したのだそうな。

私もテレビの生中継に齧りついて観た2作品。当時は巨匠ベームが指揮しましたが、半世紀の時を経た現在、伝統はしっかり日本人指揮者に受け継がれ、2012年のフィガロは今回と同じ広上淳一の指揮、2013年のフィガロは特意のベートーヴェンを披露したばかりの飯守泰次郎が指揮することになっています。

そのマエストロ飯守、今回の「オルフェオとエウリディーチェ」も客席で聴かれている姿を目撃することができました。
マエストロ広上共々、日生劇場の素晴らしい伝統を次代に引き継いで行って下さい、お願いします。

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