英国競馬1963(1)

海外の、特に英国のクラシック・シーンを回顧する季節がやって来ました。今年も半世紀前のイギリスを思い出していきましょう。最初は2000ギニーから。

1962年の2歳馬フリーハンデでトップに評価されたのは、コヴェントリー、ジムクラック、ミドル・パークなど5戦無敗のクロケット Crocket で、評価は9ストーン7ポンドでした。
ところで1962年のフリー・ハンデはジェフリー・フリーアが手掛けた最後のハンデでもあります。当時の英国競馬統括団体であるジョッキー・クラブのハンデキャッパーだったフリーア氏は、ジョッキー・クラブ随一の知識人で、その鑑識眼は他に並ぶ人がいないと目されていました。
(英国のフリー・ハンデはイギリスで走った馬が対象で、フランスやアイルランドで調教された馬も含みます。逆に如何に評価が高くとも、英国での競走実績が無い馬は対象にはなりません)

第2位は牝馬ノーブレス Noblesse で9ストーン4ポンド、牝馬のセックスアローワンスを考慮すればクロケットと同格です。以下クラシック登録の無い馬や既に海外に転出した馬を除けば、9ストーン2ポンドでハッピー・オーメン Happy Omen が続き、8ストーン13ポンドにはアイオニアン Ionian 、マジック・カーペット Magic Carpet 、クィーンズ・ハサー Queen’s Hussar が並び、1ポンド下にパーソロン Partholon という評価でした。
後に日本に種牡馬として輸入された馬たちが多いのもこの年の特色でしょう。
トップ評価のクロケットは、冬場の2000ギニー本命の地位をキープしたまま新シーズンを迎えます。

50年前の英国平場シーズンで最初に注目されるのは、復活祭に合わせて開催されるケンプトン。その2000ギニートライアルにフリー・ハンデ上位のマジック・カーペットが出走してきましたが着外に敗退、勝ったターボ・ジェット Turbo Jet は2000ギニーには登録が無く、クラシックとは無縁のローテーションを歩みます。
続いては同じ日のアイルランド、プレイヤーズ・ネイヴィー・カット・トライアルに同じ馬主で同厩のアイオニアンとパーソロンが出走して注目を集めました。しかしパーソロンは14頭立ての7着、アイオニアンに至ってはドン尻負けを喫してクラシックの期待に影が射します。元々ダービーを目指すパーソロンには調整途上という見方もありましたが、レース前は2000ギニーの2番人気に支持されていたアイオニアンには距離不安説も浮上。
そしてニューマーケット、ギニーの絶好のトライアルとなるクレイヴァン・ステークスに本命クロケットが登場します。結果クロケットは勝ったものの、2着ヴィクトリー・ウェイ Victory Way とは頭差。陣営は仕上がり過程に満足の意を表明しましたが、ジャーナリストやファンの間には物足りなさが残ったのも事実でしょう(クロケットの2歳時5勝はいずれも楽勝でした)。

この後のトライアルでは、重馬場になったニューバリーのグリーナム・ステークスを制したファイティング・シップ Fighting Ship が早々とギニーを取り消していた一方、サースク競馬場のトライアルに勝ったキング・オブ・バビロン King of Babylon はクラシックに駒を進めます。
更にフランスでは前年にモルニー賞を制したアガ・カーン所有馬のダラノア Darannour が英国遠征を決めており、そのシーズン・デビューとなったジェベル賞で本命ダラノアを3馬身破ったエーグル・グリ Aigle Gris 共々ドーヴァー海峡を渡ります。
一方フリー・ハンデ2位のハッピー・オーメンにはギニー不出走との噂もありましたが、結局はトライアルを使わずにギニーに直行することが決まりました。

こうして5月1日、2000ギニー当日を迎えます。ニューマーケットのギニー開催は初日こそ好天に恵まれましたが、レース当日の午前3時に降り出した雨はクラシックが終了する夕方まで降り続き、馬場は very soft にまで悪化。観客にとっても惨めな午後となり、入場者数も例年を遥かに下回る一日となったのは残念でした。

出走馬は最終的には21頭。クレイヴァンではやや評価を落としたクロケットでしたが、直前の調教の良さ、パドックの気配も上々だったことから人気を巻返し、結局は5対2の1番人気。4頭を送り込んだフランス組からはトライアルを制したエーグル・グリが7対1の2番人気で続き、サースクで勝ち上がったキング・オブ・バビロンが9対1の3番人気。
以下ハッピー・オーメンとダラノアは100対6。巻き返しを図るアイオニアンは18対1の伏兵に評価を落とし、33対1の「その他」無印組の中にオンリー・フォア・ライフ Only for Life の名前も見られました。

レースは例年通り二手に分かれ、大半はスタンドに近い側のコースに集中。メイン・グループの先頭にはマジック・カーペットが立ちます。ブッシュを過ぎる辺りで好位に付けていたクロケットが進出を開始しましたが、直ぐに脚を失くして後退、最後はドン尻負けと言う惨敗で期待を裏切ってしまいました。
替って坂の昇りで抜け出したのがライアン・ワード騎乗のアイオニアンとジミー・リンドレーの御すオンリー・フォア・ライフ。 終始前に出ていたアイオニアンが叩き合いを制するかに見えましたが、ゴール直前で力尽き、最後はオンリー・フォア・ライフが鼻面を並べるようにゴール。写真判定に持ち込まれます。
判定は微妙で騎乗したジョッキーも確信は得られなかったほど。先に戻ってきたオンリー・フォア・ライフのリンドレ―騎手は2着のスペースで鞍を下ろし、アイオニアンのワード騎手も頭を振りながらも優勝馬のスペースで下馬。5分間の写真判定、審判の判定は19番のオンリー・フォア・ライフを勝者としてコールし、着差は短頭差でした。3着には3馬身差でフランス遠征組の1頭コーポラ Corpora が入り、以下4着フィデリオ Fidelio 、5着キング・オブ・バビロンの順。
クロケットが最下位だったほかで人気所では、2番人気のエーグル・グリは6着、ハッピー・オーメンが12着、ダラノアは19着、前半を引っ張ったマジック・カーペットがブービー20着で最初のクラシックを終えます。

33対1の大穴を開けたオンリー・フォア・ライフは、最初の登録馬名をダートモア・ディッティ― Dartmoor Ditty と言い、ハンステッド・スタッドの生産馬。後にオンリー・フォア・ライフと改名された経緯があります。
同馬を管理するジェレミー・トゥリー調教師の叔父に当たるピーター・ベアーティ氏は、オンリー・フォア・ライフの母ライフ・センテンス Life Sentence を生産した方。軍人でもあったベアーティ氏は生まれつき視力が弱く、何度かの手術を受けたものの失明、1949年10月にリッツ・ホテルの窓から転落して事故死するという悲劇がありました。
39年の短い生涯を競馬への情熱に捧げたベアーティは、1938年にボア・ラッセル Bois Roussel を購入、2か月後にダービーを制したことでも知られます。ベアーティの死後、そのファミリーに相続されてきた競走馬は次第に数を減らしながら若きトゥリー師に引き継がれていましたが、ライフ・センテンスは売却された1頭。その仔オンリー・フォア・ライフが競りに掛けられた時、ウォルデン厩舎で見習い期間を終えていたトゥリー師が余り見栄えのしない同馬を躊躇うことなく購入したのは、上記ファミリーの歴史があった故でしょう。

オンリー・フォア・ライフは2歳の9月にアスコットのクラレンス・ハウス・ステークスでデビューしますが、その時もギニー同様大穴での優勝でした。2歳はニューマーケットのホートン・ステークス5着で終え冬を越します。
3歳初戦は既に紹介したニューバリーのグリーナム・ステークスで、快調に飛ばしていましたがゴール手前1ハロンでコースにできた水溜りに驚くようにして脱落し3着。これが嫌われたせいもあって、同じように重馬場の2000ギニーでは完全に人気を落としていたのでした。
調教したジェレミー・トゥリーにとっても、騎乗したジミー・リンドレ―にとっても、これが英国クラシック初制覇。トゥリー師は後にジュリエット・マーニー Juliette Marny でオークスを、リンドレ―騎手もカシュミール Kashmir で二度目の2000ギニー、インディアナ Indiana でセントレジャーを制することになります。

2000ギニーのあと、オンリー・フォア・ライフはダービーの登録が無くエプサムは欠場。ロイヤル・アスコットでは1マイル半のキング・エドワード7世ステークスに出走して2着以下に2馬身差を付けて快勝、1マイル半をステイするスタミナも保持していることを証明して見せました。
しかしオンリー・フォア・ライフの優勝はこれが最後で、このあとキング・ジョージがラグサ Ragusa の着外、グレート・ヴォルティジュール・ステークスも同じラグサに頭差2着したもののセントレジャーではまたまたラグサのドン尻に惨敗してシーズンを終えます。

明けて4歳になったオンリー・フォア・ライフは僅かに2戦、ジョン・ポーター・ステークス2着、アスコットのパラダイス・ステークスも2着で現役を終了し種牡馬に。
オンリーフォア・ライフの英国での種牡馬生活は短いもので、僅かに産駒ジ・エルク The Elk が1968年のオブザーヴァー・ゴールド・カップを制したのみで日本に輸出されます。

日本での産駒は私以上に詳しい方もおられるでしょうが、思い付くまま活躍馬を列記すれば、3年目(1969年生まれ)の産駒に目黒記念のヒロクニと、金杯・ARJCのクリイワイ、4年目ではイチフジイサミが日本短波賞、オールカマーと来て遂に天皇賞を制覇、準クラシックの種牡馬となります。
その後は関屋記念・新潟記念のメイジタイガー、函館3歳ステークスのシンピローなどが続きましたが、結局は日本のクラシックを制することなく日本で生涯を終えました。

後に母の父としては菊花賞馬ホリスキーを出したオンリー・フォア・ライフ、その産駒が日本のターフを走っていた当時には何故かマイラーという評価で語られることが多かったようです。1マイルの2000ギニーに勝ったこと、キングジョージとセントレジャーで惨敗したことがスタミナ不足と見られたのかも知れませんね。
しかしそのレース内容を見れば、キングジョージは故障した馬の影響をマトモに受けたことも敗因の一つでありましょうし、セントレジャーは苦手の固い馬場。実際に最後のクラシックでは脚部に故障を発症しての最下位でした。
それを証明するように、オンリー・フォア・ライフの活躍馬は長距離での好走が目立ちます。更に加えれば、母の父として出した重賞勝馬には、現役当時のライヴァルだったクロケットとの配合(タマモコトブキ)、パーソロンとの組み合わせ(ボールドシンボリ)が見出だせるのも面白い記録ではないでしょうか。

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