英国競馬1963(6)

これまでクラシック・レースを中心に半世紀前の競馬を回顧してきましたが、もう一回、落穂拾い的に英国のレーシング・シーンを紹介して行きましょう。

1963年は、2000ギニーを除く全てのクラシックに1番人気の馬が勝ち、なおかつダービー、オークス、セントレジャーは本命馬が2着以下に大差を付ける圧勝でした。
唯一本命で負けたクロケット Crocket は、次走にロイヤル・アスコットのセント・ジェームス・ステークスを選びます。ここには2000ギニーでオンリー・フォア・ライフ Only for Life に惜敗したアイオニアン Ionian が出走して1番人気に支持されました。
今回初めてブリンカーを装着したクロケット、アイオニアンを全く相手にせず2着以下に6馬身差を付けて圧勝、2歳時の評価を回復します。

クロケットの次走はグッドウッドのサセックス・ステークスは、一転して精彩を欠き、6着凡走。この時点でクロケットは競馬自体に興味を失っていて、そのまま引退してしまいます。
サセックス・ステークスを25対1で制したのはクィーンズ・ハサー Queen’s Hussar 。彼も1960年生まれのクラシック世代で、この年は9戦して優勝は2勝のみ。しかしその2勝はニューバリーのロッキンジ・ステークスとサセックス・ステークスでした。
ロッキンジ・ステークスでは前年のヨーロッパ最強マイラーのロムルス Romulus を破り、サセックス・ステークスは1963年から賞金が大幅に増加されて準クラシック・レースに格上げされた一戦。
ムラ気な成績ながらこの2大レースを制したクィーンズ・ハサー、後に種牡馬として名馬ブリガディア・ジェラード Brigadier Gerard を出すと予想できた人はほとんどいなかったと思われます。

中距離路線はクラシック・レース回顧でほぼカヴァーしましたが、唯一残ったのはエプサム開催のコロネーション・カップ。ここには前年のセントレジャー馬で英国の期待ヘザーセット Hethersett が登場しましたが、又しても優勝はフランスから遠征してきたエクスバリー Exbury です。
この年4歳のエクスバリーは小柄な栗毛馬で、前年は仏ダービー3着程度だったものの古馬になって充実。ボアール賞、ガネー賞と連勝してコロネーション制覇、その後もサン=クルー大賞典と凱旋門賞と一気に5連勝してヨーロッパ・チャンピオンに輝きます。
1962年版レースホース誌でタイムフォームが与えたレーティングは138。ラグサの137、レルコ136を抑えて最も高く評価しました。

長距離部門での最大の話題は、アスコット・ゴールド・カップを制したトゥワイライト・アレー Twilight Alley 。4歳馬ながらゴールド・カップが僅かに3戦目という仕上げの難しい馬で、次に出走したキング・ジョージで故障して現役生活を終えます。
ゴールド・カップにはフランスからミスティー Misti Ⅳ 、テーヌ Taine 、バルト Balto というステイヤー3強が挑戦してきましたが、騎乗したレスター・ピゴットが芸術的とも言える逃げ戦術で鮮やかに逃げ切ってしまいました。
ピゴットと言えばニジンスキー Nijinsky やパーク・トップ Park Top などでの強烈な追込みを思い出しますが、彼の逃げは正にアートの世界。いつでも交わせそうな差でペースを作り、最後はたとえハナ差でも持たせてしまうテクニックは他のジョッキーには真似の出来ないものでした。トゥワイライト・アレーはその典型的な一例でしょう。
トゥワイライト・アレーの父アリシドン Alycidon は自身もゴールド・カップに勝った名ステイヤーであり、長距離系の大種牡馬でしたが、ここまでゴールド・カップを制した産駒は無く、受胎率が極端に落ちていたこともあってトゥワイライト・アレーがゴールド・カップ制覇の最後のチャンス。マーレス調教師の意向を覆して出走に踏み切らせた馬主サッスーン夫人の執念も話題になりました。

一方スプリンター部門は主要レースで次々に勝馬が変わる混戦で、抜けた存在は出現しませんでした。そもそも当時の短距離戦は賞金も廉く、ナンソープ・ステークス、ジュライ・カップ、ダイアデム・ステークス、キングズ・スタンド・ステークスの4レースを合わせて漸くゴールド・カップの賞金に届く程度。今日のようにスプリント路線が注目されるようになるまでにはもう暫く時間が掛かることになります。
そんな中でタイムフォームが最高評価を与えたのが3歳牝馬のマタティーナ Matatina 。ナンソープ・ステークスでライヴァル、前年の最強スプリンターでこれも牝馬のシークレット・ステップ Secret Step を破ってベスト・スプリンターの評価を得ます。
なおフランスの短距離戦の頂点たるアベイ・ド・ロンシャン賞は2歳牝馬テクサニータ Texanita が勝って、姉テクサーナ Texana の跡を追うことになります。

牝馬路線に目を向けると、1000ギニーとオークスで共に2着したスプレー Spree はグッドウッドでナッソー・ステークスに勝って面目を保ちましたが、勝鞍はこの一鞍だけ。
秋になって台頭してきたのがアウトクロップ Outcrop で、ヨークシャー・オークスと牝馬のセントレジャーと呼ばれるパーク・ヒル・ステークスを連勝、英国3歳牝馬の最強馬と評価されます。
面白いのはスプレーもアウトクロップもロックフェラ Rockfella 産駒であることで、この2頭の活躍によってロックフェラはこの年のリーディング・サイアーの第4位を獲得します。
もちろん第1位はラグサが貢献したリボー Ribot 、第2位がフラ・ダンサー Hula Dancer を擁するネイティヴ・ダンサー、そしてオンリー・フォア・ライフのシャントゥール Chanteur Ⅱ が第3位でした。

以上が1963年の主要な英国競馬の出来事ですが、最後に日本との関係を一つ取り上げておきましょう。

1963年の日本は、ズバリ、メイズイとグレートヨルカの2強対決に沸いた年。皐月賞とダービーを制したメイズイが、三冠確実と言われた菊花賞でグレートヨルカの後塵を拝したこと、菊花賞の1週目のスタンド前で騎手が観客に手を振ったとこも今や伝説になってしまいました。
もう一つ忘れてならないこの年のニュースは、戦後常にリーディングを争ってきた種牡馬ライジング・フレーム Rising Flame が死去したことでしょう。
同馬を供用していたシンボリ牧場の和田共弘氏が後継馬として白羽の矢を立てたのが、この年の3歳世代のパーソロン Partholon 。アイルランドでT・ショウ調教師が管理していた馬で、ヨークのイボア・ハンデに勝っていました。

日本で1960年代終わりから1980年代半ばまで日本の生産界をリードすることになるパーソロンですが、輸入当初は何故か専門家諸氏からマイラーと評価されていたものです。
2000ギニーの項で若干触れましたが、2歳時にオブザーヴァー・ゴールド・カップで2着したパーソロンは、陣営ではダービー候補と見做していた馬。3歳初戦こそ1マイル戦に出走しましたが、その後は専ら12ハロンから16ハロンの長距離を闘ってきた馬でした。
愛ダービー6着、愛セント・レジャー4着と、クラシックに一息届かなかったのはスタミナ故ではなく、能力的にクラシック級には一歩及ばなかったから。実際、彼が勝ったイボア・ハンデはヨーク競馬場のほぼ14ハロン。私も体験しましたが、この競馬場の地質は粘土質で、平坦コースとは言いながらスタミナが無くては勝てない競馬場です。

ですからメジロアサマが天皇賞に勝った時に起きた“短距離馬が天皇賞制覇”論争は、今思い起こせば笑止千万な議論。三冠馬シンボリルドルフこそ、パーソロンが残した最大の遺産だったと言えるでしょう。

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