読売日響・08年2月名曲シリーズ聴きどころ

ミクシィに「読売日響」というコミュニティがあって、毎月2本、「聴きどころ」シリーズというのをやっています。素人の目から見た聴きどころ。きっかけは、プログラムがありきたりで、私自身物足りなく感じていたからなんです。
まぁ試しに、ということで始めたのですが、1年続きました。折角ブログも開設したことですし、こちらにも転載しておこうかな・・・。検索で引っかかって参考にされる方もいるかも知れません、反発される方もおられるでしょう。どちらにしても、クラシック音楽のコンサートが賑わってくれれば、こちらの思う壺です。
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早いもので、もう2月の聴きどころをやらなきゃなりません。先月の定期、ショスタコーヴィチの流れを受け継いで、2月はマーラーとリヒャルト・シュトラウスという繋がりもあり、聴きごたえのある大曲が並びます。
先ずはマーラーの「復活」から。
2月の名曲シリーズはマーラーの第2交響曲、ただ1曲です。まぁ、当然でしょうね。まず日本初演。
1933年(昭和8年)2月18日 奏楽堂 クラウス・プリングスハイム指揮・東京音楽学校の第66回定期演奏会。
プリングスハイムはウィーン歌劇場で副指揮者を務めた方です。当時の音楽監督は他ならぬマーラーその人でしたから、プリングスハイムはマーラーの直弟子に当たります。
そのプリングスハイムが外国人雇い教師として上野に着任したのが1931年。恐らく当時の音楽学校のオーケストラは現在とは比べ物にならないレヴェル。それを叱咤激励して師マーラーの交響曲を次々に日本に紹介していったのですから、それは壮絶な風景だったでしょうねぇ。
マーラーの第1と第4は既に日本人の手で演奏されていましたから、プリングスハイムはそれ以外の大作をほぼ毎年のように取り上げていきました。即ち、
1932年 第62回定期 第5
1933年 第66回定期 第2
1934年 第70回定期 第6
1935年 第74回定期 第3
1937年 第82回定期 第7
まだ地元ウィーンでもマーラーはほとんど評価されていない時代、極東の日本で第6や第7が演奏されていたこと自体が驚異と言えるのではないでしょうか。
今日では「復活」の演奏は日常茶飯事になってしまいました。たまには先人の苦労を偲び、マーラーと日本との浅からぬ縁に想いを馳せるのも、聴きどころの一つではないでしょうか。
次に楽器編成。書くのが面倒ですが、プログラムには載りませんので、懲りずに続けます。
フルート4(4本ともピッコロ持替)、オーボエ4(3番奏者と4番奏者、イングリッシュホルン持替)、クラリネット5(3番奏者バスクラリネット持替、4番奏者Esクラリネット2番持替、5番奏者Esクラリネット1番持替)、ファゴット4(4番奏者コントラファゴット持替)、ホルン10、トランペット8、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ2、打楽器4人、ハープ2(終楽章では倍加しても可)、オルガン、弦5部。打楽器は、大太鼓、シンバル、トライアングル、小太鼓、グロッケンシュピール、タムタム2、鐘3、鞭となっています。
そうそう、ソプラノ・ソロ、アルト・ソロに混声合唱が加わるのを忘れてはいけません。
マーラーが本来要求した鐘は特別製のピッチの極めて低いものであったとか、いろいろ煩い注意書きもありますし、舞台裏でも、誰が何処で演奏せよ、などという指示もあるようです。上記の内容、間違っていたらごめんなさい。ホルンなどは舞台裏だけで4人ですから、舞台に6人しか乗っていなくても、文句は言わないで下さいね。
さて「復活」は、普通にユニヴァーサルから出版されている譜面を使いますが、2005年になって「復活」オタクの奇人・カプランが校訂した新しい版も取り上げられるようになって来ました。今回は特別にアナウンスもないようですから、特に変わった事件は起きないだろうと思っています。

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さて聴きどころですが、大曲ですので思いつくまま。とてもトピック一つに収まるものではありません。
マーラーが第2交響曲を書き始めた頃、音楽界の流れは「交響曲」よりも「交響詩」に傾いていました。交響詩はもちろんリストが創始したと言われる音楽形式ですが、物語性を多分に含んだオーケストラ曲。リストが書いた最後の交響詩「揺りかごから墓場まで」は1883年に出版されています。マーラー23歳のときですね。
ところでマーラーは後に交響曲第1番「巨人」となる作品を1889年に発表していますが、その時は「交響曲」ではなく、「二部交響詩」として、でした。後にストーリーは引っ込めてしまいますが、明白に標題音楽としての交響詩だったのです。
第2交響曲の第1楽章は、最初、「葬礼」というタイトルを持つ作品で、いずれは「交響曲ハ短調」の一楽章にする積りで書かれたのでした。この時点で、マーラーは最初の交響曲にする積りだったそうです。
「葬礼」の完成は1888年10月ですが、その後紆余曲折があり、現在の第2楽章から第4楽章までが完成されたのが1893年夏。この時点でも、この三つの楽章が交響曲に組み込まれる計画だったわけではないようで、楽章の順序も決定していませんでした。
第5楽章は更に難産でした。最終的には1894年2月12日にカイロでハンス・フォン・ビューローが死に、3月29日にハンブルクで行われたその追悼式でクロプシュトックの詩による合唱を聴いたことが「天啓」となって、全曲を完成させたのですね。この辺の経緯はプログラムに掲載されるでしょう。
作曲の経緯を長々と書いたのは、マーラーの「復活」は最初から交響曲として構想されたものではなく、表題を持った交響詩がベースになっていることに着目すべきだ、と考えたからです。第2楽章以降もマーラーが悩んだ末、偶然も手伝って奇跡のように「交響曲」という形式にスッポリ嵌ってしまったものなのです。
この交響曲にはリストは勿論、ベルリオーズやベートーヴェンの影響があることは明らかでしょう。特にベートーヴェンの第9が意識されていることは明白だと思います。
合唱が入るという単純な事実に留まらず、終楽章では先立つ楽章からの引用があること。例えばフィナーレ冒頭は第3楽章のピークに出てくる爆発そのものですし、暫く行った所で引用される「怒りの日」のテーマも、第1楽章の回想でしょう。
私は第3楽章にもベートーヴェンの影を感じます。それは、いきなりティンパニのソロで開始される所、第9では第2楽章の頭のティンパニ「パン・タロン」です。マーラーはこのアイディアを後から付け加えたのだそうですね。
マーラーが楽章の順序にも悩んでいたことが証拠として残っています。スコアをお持ちの方は、練習番号に注目して下さい。第1楽章は1番から27番まで振られていますね。第2楽章は普通に1から始めて15まで続きますが、何と第3楽章は28番から始まっています。これはマーラーが現在の第1楽章に第3楽章を続けようと考えていたからで、練習番号はその時の考えで振られたものに違いないでしょう。
マーラーの頭の中には、現在の第1楽章と第2楽章との落差があまりにも大き過ぎる、という考えがあったのだそうです。第1楽章と第2楽章の間に5分間の休憩を置け、という指示がありますが、これもその落差を緩和させるための措置だったのかも知れません。この指示、現在は忠実に実行する指揮者はいないでしょう。
極めて複雑、かつ多用な解釈が可能なマーラーの「復活」。これを交響曲的に扱うか、あるいは交響詩としての性格に重きを置くかによっても、聴き手の受け取り方は違ってくると思います。
1月のショスタコーヴィチでも、同じような問題で聴衆の間で賛否が分かれていたようですね。期待のマンフレッド・ホーネック、どのような「復活」を聴かせてくれるのか、固唾を呑んで待ち受けているところです。

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