英国競馬1966(3)

1966年の英国競馬、3回目は愈々エプサム・ダービーです。今は6月第1週で定着していますが、この年は5月25日に行われました。

2000ギニーからダービーにも参戦したのは、8着プリテンダー Pretendre 、5着アンベリコス Ambericos 、17着ラケット Raket 、14着ドレヴノ Drevno の4頭だけでしたが、ラケットとドレヴノの2頭はその後の評判にもならなかった馬で、実際ダービーもただ参加するだけのオリンピック精神に徹しただけでした。
最初に結果を書いてしまえば、冬場の2番人気であり続けたシャーロットタウン Charlottown が優勝し、一時冬場の本命だったプリテンダーが2着と極めて順当でした。しかし本番までの1ヶ月は多くの紆余曲折があり、最後に出た結論は元に戻った、という印象の年でもありましたね。

いつものように時系列を追いながら見て行くと、
2000ギニーの二日後、アスコットのホワイト・ローズ・ステークスでアイルランドのライト・ノーブル Right Noble が、レスター・ピゴット騎乗で2着以下に6馬身差の圧勝を演じます。その印象からダービーのオッズは5対1となり、2000ギニーでは思ったほどの成績が残せなかったプリテンダーは8対1に下降。しかしライト・ノーブルを管理するヴィンセント・オブライエン師は同馬をフランス・ダービー向きのタイプと説明し、英仏ダービーどちらに向かうかはペンディングとしました。

5月3日にはチェスター競馬場でチェスター・ヴァーズが行われ、プリテンダーと同じジャック・ジャーヴィス厩舎のジェネラル・ゴードン General Gordon が優勝。2戦目での初勝利で、内容は楽勝でしたが、その評価は分かれます。騎乗していたのは厩舎の主戦騎手ポール・クックで、彼が本番でプリテンダーを選ぶのは明らかでした。
同じチェスターで2日後に行われたディー・ステークスも、又もアイルランドのヴィンセント・オブライエンが管理するグレイ・モス Grey Moss が優勝。20馬身の大差で楽勝でしたが、相手はほとんど実績も無い馬で、その評価は決して高いものではありませんでした。

このあと5月7日にレパーズタウンでウィルス・ゴールド・フレイク、9日にブライトン・トライアル、10日にはヨークでダンテ・ステークス、11日にはリングフィールド・トライアルが、そして12日に愛2000ギニーと連日の様にトライアルが続きますが、5月6日にアイルランド政府が大陸からの馬の移動禁止を発表、状況は急変します。
この結果ライト・ノーブルのフランス遠征は事実上不可能になりました。即ちフランス・ダービーに出走はできても帰国できなくなるということで、陣営はエプサム参戦を明言。レスター・ピゴット騎乗も正式に決まったことから、オッズは一気に4対1に急上昇し、この時点で1番人気に上がります。
この1週間後には英国も移動禁止を発表し、フランスの有力候補馬たちは全て賭けのリストから外され、今年のダービーは英国とアイルランドの一騎打ちと言う形に変わってしまいました。

上記トライアルの数々を順次紹介すると、
レパーズタウンのウィルス・ゴールド・フレイクはミック・ロジャーズ厩舎の評判馬ラッドブルック Radbrook が断然本命に推されましたが、3着に敗退。
ブライトン・トライアルは、今期初戦を予定していたシャーロットタウンが直前に跛行のため取り消し、ファンをガッカリさせます。症状は軽度で済みましたが、本番の16日前のことでもあり、不安を残す結果に。レースはフリーハンデ8位のソディウム Sodium が勝ち、クリスプ・アンド・イーヴン Crisp and Even が2着となり、この2頭がエプサムに挑戦することになります。ソディウムのオッズは12対1となり、シャーロットタウンは20対1に後退してしまいました。

ヨーク競馬場のダンテ・ステークスは1着エルメス Hermes 、2着メハリ Mehari という結果になりましたが、エルメスは16対1、メハリも25対1で何れもアウトサイダーとしての評価に留まります。
そしてリングフィールド・トライアルには、ブライトンを取り消したシャーロットタウンが姿を現し、断然の1番人気に推されます。前日の豪雨のためレースそのものの開催が危ぶまれたほどで、結果は伏兵のアメリカ産馬ブラック・プリンス Black Prince が勝ち、シャーロットタウンは絶望的な最下位から3馬身差まで追い込んで2着。3着はセント・パックル St. Puckle でした。
このレースはスローペースに落としたブラック・プリンスがまんまと逃げ切ったもので、ロン・ハッチンソンが騎乗したシャーロットタウンは余りにも後方から行き過ぎたための結果。レース後に裁決委員と調教師がジョッキーに理由を説明するよう迫ったほどの判断ミスでした。シャーロットタウンのオッズはレース直後に12対1が出されましたが、ミス騎乗と後半の追い込みが見直され、その日の内に8対1に回復するという乱高下状態となります。

アイルランド2000ギニーは一部でダービー候補と期待されていたデモクラート Democrat が4着に大敗し、結局この馬はダービーを回避します。

これで主要なトライアルは全て終了し、最終的に9対2の1番人気にはライト・ノーブルと、2000ギニー以来ながら調教も良かったプリテンダーが並び、トライアルでポカを演じたハッチンソン騎手に替って名手スコービー・ブリズリーを得たシャーロットタウンが5対1の3番人気。以下グレイ・モス、エルメス、ソディウムの順に人気が集まっていました。
レース前の調教でジェネラル・ゴードンが骨折し安楽死処分になるという不運もありましたが、最終登録を済ませた25頭は全て出走し、地元イギリスが18頭、アイルランド7頭と英愛対決のメンバー。

前日とレース直前の雨で馬場は good と馬にとっては走り易い状態でしたが、スタート前にシャーロットタウンが落鉄するというアクシデントがありました。同馬は蹄が薄く、装鉄には高度な技術が要求されましたが、ヴェテランが見事にクリア。この結果、スタートは15分遅れとなります。

見事なスタートから先行したのはアイルランドの2頭、人気の一角ライト・ノーブルとセント・パックルで、そのままリードを保ってタテナム・コーナーから直線へ向きます。
一方、英国の期待を背負ったシャーロットタウンとプリテンダーは後方からの展開。半マイル地点ではプリテンダーの前には15頭ほどが犇めき合っており、シャーロットタウンに至っては後方3~4番手の位置に付け、観客はハラハラ・ドキドキ状態で直線を見つめます。

しかし勝負はここからで、丘の頂上からプリテンダーは徐々に順位を上げ、シャーロットタウンも思い切り内を衝いて進撃開始。直線では先行していたアイルランドの2頭は一杯となり、終始好位を追走していたブラック・プリンスとソディウムが前に出ます。先に優位に立ったブラック・プリンスがそのまま押し切るかに見えましたが、馬場の中央からプリテンダー、バテて後退する馬を巧みに避けながら内からシャーロットタウンが一気に進出し2頭の叩き合い。一旦怯んだかに見えたシャーロットタウンがブリズリーのムチに応えて巻き返し、写真判定の結果プリテンダーを首差捉えていました。
3着は5馬身差が付いてブラック・プリンスが入り、最後で止まったソディウムが4着。以下、5着クリスプ・アンド・イーヴン、6着アンベリコスの順。1着から5着までは全て英国勢が独占し、漸く6着にアイルランド調教馬(アンベリコスもオブライエン厩舎)が入るという結果は、当然ながらイギリスのファンや競馬関係者からは大絶賛で迎えられました。

シャーロットタウンは父が仏ダービーとパリ大賞典を制したシャーロッツヴィル Charlottesville 、母は1955年の1000ギニー、オークス、セントレジャーを制した三冠牝馬メルド Meld と言う英国競馬ファンの夢を叶えたような血統。シャーロットタウンはシャーロッツヴィルの2年目の産駒で、この年のクラシックは若い種牡馬の産駒が勝つという象徴でもありました。
同馬はサマリー・スタッドの生産馬で、オーナーはロシア貴族の娘で馬主としても有名な英国貴族と結婚したヅィア・ヴァーンヘル夫人。生産牧場のオーナーでもあり、オーナー/ブリーダーを代表する存在です。彼女はまたシャーロットタウンの母メルドのオーナーでもあり、母と子の快挙で英国クラシック4冠を達成しましたが、残念ながら2000ギニーには縁がありませんでした。

勝利調教師は、この年パブリックの調教師として開業したゴードン・スミス。シャーロットタウンは2歳までジョン・ゴスデン(現在のジョン・ゴスデン師の父)が管理していましたが、師の健康が悪化したため、スミス師の管理下に移ったばかりでした。僅か1年違いで、ゴスデン師はダービー調教師の名誉を逃したことになります。
そのスミス師は、父と共にノーフォーク卿の私的な調教師を務めていた方で、ゴスデン師の引退に伴ってその後を引き継いだばかり。クラシック制覇はこの年のダービーだけで、その意味では極めてラッキーな調教師でもありました。

20歳のクック騎手を力で捻じ伏せた印象のブリズリー騎手は、この年52歳。ダービーは2年前のサンタ・クロース Santa Clause に続く2勝目で、これが最後の英国クラシック制覇となります。プロフィールは一昨年、「英国競馬1964(3)」で詳しく扱いました。

シャーロットタウンは2歳時に3戦、サンダウンのソラリオ・ステークス、アスコットのブラックウッド・ホッジス・ステークス、ニューバリーのホーリス・ヒル・ステークスに勝って無敗。血統の魅力もあり、冬場はずっとダービーの2番人気を維持していました。
ダービーの後は3戦し、何れもダービーでは4着だったソディウムがライヴァルとなります。愛ダービーではソディウムが1馬身差でシャーロットタウンを破りましたが、ニューバリーのオックスフォードシャー・ステークスではシャーロットタウンが3着のソディウムに13馬身差で圧勝。2頭の最後の対決となったセントレジャーは、(後述の通り)ソディウムがシャーロットタウンに頭差で雪辱します。

2頭の評価はほぼ拮抗しており、競馬ジャーナリストの投票で決まる年度代表馬は、176対174、僅か2票差でシャーロットタウンが選出されました。
一方この年の3歳フリーハンデではソディウムが10ストーンでトップ、シャーロットタウンは1ポンド低い9ストーン13ポンドに評価されます。タイムフォームのレースホース1966年版でもソディウムが128、シャーロットタウンは127の評価でした。

4歳になったシャーロットタウンは3戦。ニューバリーのジョン・ポーター・ステークスに優勝、エプサムでも前年の仏ダービー馬ネルシウス Nelcius とライヴァルソディウムを破ってコロネーション・カップと連勝します。最後となったサン=クルー大賞典は8頭立て6着と生涯で唯一度の3着以下を経験し、そのまま引退して英国で種牡馬となりました。
しかし種牡馬としてはイタリア1000ギニーのローマン・ブルー Roman Blue を出した程度で失敗し、1977年にオーストラリアに輸出されてしまいます。
因みに日本では上総特別と武蔵野ステークス(共に1800メートル)に勝った持ち込み馬のインタープライドがあっただけで、シャーロットタウンを識るファンはほとんどいないでしょう。

 

Pocket
LINEで送る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください