英国競馬1966(1)

毎年1月は50年前の英国競馬を回顧するコーナーを続けてきました。2009年から始めましたので、今年は8回目。改めて時の流れの速さを痛感します。何時まで続けられるか判りませんが、海外競馬の語り手は日本では決して多くないと思いますので、出来る限り続けて行きたいと思っています。

さて去年はダービー馬シー・バード Sea-Bird を筆頭にフランス勢の強さを強調しましたが、1966年の英国クラシックは様相がガラリと変わってしまいました。
それが馬の伝染性貧血症(Swamp Fever)で、これが春からヨーロッパ大陸で蔓延。遂に5月6日にアイルランド政府が大陸との馬の移動を禁止し、英国政府も1週間後に同調するという事態に発展してしまいます。この移動禁止令は11月1日になって漸く解除されましたが、エプサムとドンカスターのクラシックはフランスを初めとするヨーロッパ大陸勢を抜きにした形で進むことになりました。
この結果、英国でフランス調教馬が勝ったのは、一シーズンを通して2000ギニー唯1勝のみということになります。

もう一つ1966年の競馬トピックスを紹介しておきましょう。クラシック・レースには直接の影響はありませんでしたが、7月28日に英国史上初めて女性調教師に門戸が開放されたのでした。20年間の啓蒙活動と法廷闘争を経て、フローレンス・ネイジェル夫人が最初にライセンスを獲得します。
その1週後にはブライトンで、ミス・ノーラ・ウィルモット調教の馬が英国最初の女性調教師として平場で初勝利を記録。徐々にではありましたが、男の世界と思われていた競馬サークルにも女性の活躍の場が拓かれたのがこの年でした。
現在の日本は女性の進出面で遅れていると世界から批判されているようですが、人権運動の先進国でもある英国でさえ、半世紀前はこんな状態だったのです。競馬はスポーツであると同時に堂々たる文化。ギャンブルだけが競馬の楽しみでは無いことにも注意を喚起しておきたいと思います。

1966年の5つのクラシック・レースの内、オークスを除く4レースが全て写真判定で勝馬が決まる接戦だったことも記憶されてよいことでしょう。
更に加えれば、50年前のクラシック・シーンは新種牡馬の活躍が目立った年で、1000ギー、オークス、セントレジャーは初年度産駒が、2000ギニーとダービーは2年目の産駒がクラシックを制しました。その辺りはレース個々に取り上げて行きましょうか。

第一弾は例によってニューマーケット競馬場で4月27日に行われた2000ギニー。
最初に前年2歳のフリーハンデを紹介すると、10ストーンでヤング・エンペラー Young Emperor がトップ。続いて9ストーン10ポンドのプリテンダー Pretendre 、9ストーン9ポンドでシャーロットタウン Charlottown と続き、第4位に9ストーン7ポンドで牝馬のソフト・エンジェルス Soft Angels と牡馬のル・コルドニエ Le Cordonier が並んでいました。
更に見て行くと、後にセントレジャーを制するソディウム Sodium は9ストーン3ポンドで8位、1000ギニーのグラッド・ラグス Glad Rags も8ストーン12ポンドで牝馬中では4位に付けており、2歳の成績で評価されるフリー・ハンデの上位馬が順当にクラシックでも好成績を収めたシーズンだったと言えるでしょう。

その2000ギニー、最初に発表されたブックメーカーのオッズではアイルランドの3頭が上位を占めていました。即ちヤング・エンペラー、ケルティック・ソング Celtic Song (フリーハンデはソディウムと並び8位)、ラナーク Lanark の3頭。
この年のアイルランドは特に天候が不順で調教も思うように進まず、この内の2頭を管理するパディー・ブレンダーガスト厩舎でもかなり長い期間に亘ってヤング・エンペラーとケルティック・ソングの評価は上下して定まりませんでした。結局ケルティック・ソングは2000ギニーに直行する道を選択します。

天候不順はイギリスも同様で、クラシックに向けた調整はどの厩舎も苦労していました。
一方2歳時は英国で調教されていたラナークは、ジムクラック・ステークスでヤング・エンペラーの2着したあとアイルランドのヴィンセント・オブライエン厩舎に移籍しており、3月フェニックス・パークでアスボイ・ステークス(1マイル)に優勝。順調かと思われましたが、2000ギニーに向け調整中の本番5日前に骨折、この年は1戦のみで終わるという不運に見舞われます。

フランスでは4月1日にメゾン=ラフィット競馬場でジェベル賞が行われ、カシミア Kashmir が勝ち、ラムジンガ Ramsinga 2着、ヴィレッジ・スクエア Village Square 3着。3頭の評価は区々でしたが、何れもニューマーケット遠征を表明します。
特に勝ったカシミアはフランスのフリーハンデに相当するハンディキャップ・オプショナルでも高く評価されていましたが、ここまでは英国では無名の騎手(マックス・ブラインスキ)が騎乗していました。しかしこの後ニューマーケットではジミー・リンドレーが騎乗すると発表され、オッズは一気に7対1に急上昇します。ラムジンガもスコービー・ブリズリーを新たなコンビとして獲得し、フランスからの挑戦も現実味を帯びてきました。

4月6日のケンプトンの2000ギニー・トライアル・ステークスはラッキー・ビスケット Licky Buiscuit が勝ち、期待のヤング・エンペラーは3着に敗退。冬場は2対1の本命だったヤング・エンペラーでしたが、この敗戦でオッズは6対1に急下降し、替ってカシミアが5対1で本命に上がりました。
このトライアルでヤング・エンペラーに騎乗していた主戦のデ・レイク騎手は、結局本番ではケルティック・ソングを選択することになります。一旦は人気が落ちたヤング・エンペラーでしたが、本番ではピゴットに乗り替わることが公表され、ヤング・エンペラーの人気はまたもや復活するという激しい流れ。

同じ4月6日にカラーでグラッドネス・ステークスが行われ、2着に入ったアンベリコス Ambericos は、父が2000ギニー馬ダリウス Darius 、母は1000ギニーで微差2着のアンベルグリス Ambergris という良血。しかし、この時点でこの馬に注目する人は極く僅かでした。
同じように、この2日後に同じケンプトンで行われた小レースのコヴェントリー・ステークスで落馬した馬に注目する人は誰もいませんでした。それがグレート・ネフュー Great Nephew で、後からシーズンを回顧すれば、この馬がこの年のヨーロッパ・マイラー界では強力な1頭に成長して行くことを予言できた人がいたとは思えません。

ニューバリーのグリーナム・ステークスは雪のため中止。続くニューマーケットのフリー・ハンデキャップはキベンカ Kibenca が勝ち、パーシャン・エンパイア Persian Empire が首差で2着。この内パーシャン・エンパイアが本番へ向かいます。
4月19日、冬の間ダービーの本命に挙げられていたプリテンダーが、エプサムのブルー・リバンド・トライアルで漸くクラシックに間に合います。プリテンダーは本来ならダービーのトライアルであるこのレースを、若手のポール・クック騎乗にも拘わらず持ったままで2着以下に6馬身差の大楽勝。この時点では2000ギニーはレース間隔も少なく出否未定でオッズは5対1でしたが、最終的に陣営から出馬が宣言されると3対1に急上昇し、その結果ヤング・エンペラーは6対1にまたもや下降。

こうして当日を迎えた2000ギニー、最終的にはプリテンダーのオッズは9対4にまで上がって1番人気。ヤング・エンペラーは結局4対1で2番人気となり、スタンド側に最も近い1番枠を引いたカシミアが7対1の3番人気。ヴィレッジ・スクエアが10対1の4番人気、ラムジンガは13対1で5番人気の順で続いていました。
全部で25頭が出走し、馬場は good 。

スタートが切られると例によって馬群はコースの内外に分かれ、スタンド側でヤング・エンペラー(15番枠)が先頭。これをケルティック・ソング(12番枠)とグレート・ネフュー(8番枠)が追う展開。一方ヴィレッジ・スクエア(23番枠)とプリテンダー(16番枠)はスタンドから遠い側を先行します。
ゴール前2ハロン、スタンドからはピゴットが抑えたままのヤング・エンペラーの楽勝と思われたましたが、結果論ですが不安視(父はグレイ・ソヴリン Grey Sovereign)されていたスタミナ不足が露呈してしまいます。一方、スタンドからは遠い側でプリテンダーが先頭を窺う勢いで進出して来るのが見えます。

しかしゴール前100ヤード、本命プリテンダーはエプサムのような瞬発力は見られず、追走していたアンベリコスにも交わされる始末。最後の上り坂でヤング・エンペラーも追い出しに掛かったものの一杯。ここにカシミアが襲い掛かると、2番人気のヤング・エンペラーもギヴアップ。
ゴール前1ハロンでカシミアが抜け出した所に迫ってきたのが、66対1の伏兵グレート・ネフュー。頭の上げ下げとなるも、ゴール板ではカシミアが短頭差で先着していました。次の一歩ではグレート・ネフューが抜けていたという際どい勝負で、もしグレート・ネフューが勝っていれば大変な大穴になるところでした。2馬身半差でケルティック・ソングが短頭差ヤング・エンペラーを捉えて3着に入り、アンベリコス5着、ヴィレッジ・スクエア6着。人気のプリテンダーは8着と期待を裏切りました。

2000ギニーが終わった時点では、これがこの年唯一のフランス調教馬の勝利になるとは誰も予測できなかったでしょう。勝馬を管理するミック・バーソロミュー調教師にとっては初の英国クラシック制覇となりました。
騎乗したリンドレーは、これが1963年のオンリー・フォア・ライフ Only for Life に続き2000ギニーは2勝目。この時31歳の剛腕で知られた名手ですが、英国クラシックはこの後翌年のセントレジャーをインディアナ Indiana で制した3鞍のみということになります。

カシミアはアイルランドでレヴィンス・ムーア夫人が生産した青毛馬で、その父チューダー・メロディー Tudor Melody もムーア夫人の生産馬。上記の様に、カシミアは父の2年目の産駒です。
同馬は、ニューマーケットの競りでオーナーとなるバトラー氏の代理人が8600ギニーで落札し、フランスのバーソロミュー厩舎に送られました。バーソロミュー師は1960年にピュイサン・シェフ Puissant Chef で凱旋門賞を制していた方で、翌1967年にはトピオ Topyo でも凱旋門に勝つことになります。

カシミアの2歳時はサン=クルーで800メートルのデビュー賞、ロンシャンで1000メートルのマーチンヴァスト賞、メゾン=ラフィットでも1100メートルのロベール・パパン賞(現代のパターン・レース・システムではGⅠ戦)に優勝し、他にロシェット賞とフォレ賞で2着、モルニー賞は3着という成績を残していました。
ギニーのあとフランスに戻ったカシミアは、5頭立てながら強力なメンバーが揃ったジャン・プラ賞でシルヴァー・シャーク Silver Shark の3着。続くほぼ同じ距離のイスパハン賞でもシルヴァー・シャークには歯が立たず5着敗退で、1マイルまでのスタミナしかないことが証明されてしまいました。2000ギニーの優勝はギリギリでの勝利だったと言えそうです。カシミアはそのまま3歳で現役を退き、フランスで種牡馬となります。

その産駒には同じ年(1974年)に仏ギニーに勝ったムーラン Molulines とドゥムカ Dumka を出した他、ナンソープ・ステークスのブルー・カシュメーア Blue Cashmere 、ヴェルメイユ賞とクリテリウム・ド・プーリッシュのカミシア Kamicia 、父が負けたジャン・プラ賞とイスパハン賞に勝って雪辱を果たしたライトニング Lightning があり、一応の成功を収めたと評すべきでしょう。
なお日本では野路菊賞(1200メートル)に勝ったサンコオーピリカがあり、母の父としては1200メートルから1600メートルまでの特別に3勝したローベルウォークがある程度で、日本のファンには余り馴染の無い存在で終わっています。

 

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