東京フィルハーモニー第754回定期演奏会

昨日は珍しく東フィルのサントリー定期を聴いてきました。東フィル定期を日記に書くのは初めてだと思います。
ワーグナー/歌劇「タンホイザー」序曲
シューベルト/さすらい人幻想曲(リスト編)
     ~休憩~
リスト/ファウスト交響曲
 指揮/ダン・エッティンガー
 ピアノ/小川典子
 テノール/成田勝美
 合唱/新国立劇場合唱団
 コンサートマスター/荒井英治
出演者のリストを見れば分るように、小川典子を聴くのが目的で出掛けたのですが、他にも理由がありました。それはリストのファウスト交響曲が聴ける上、テノールの成田勝美にも惹かれたこと。いつぞやの二期会、「ワルキューレ」でのジークムントが素晴らしい出来で、改めてこのヘルデン・テノールに注目していたからでもあります。
申し訳ないけれど、最近は東フィルをほとんど聴いていません。大野和士の頃はチョイチョイ聴いていたんですがね。
ということで、オーケストラについてはコメントを差し控えましょう。この日は大変にスリリングで、時々オペラで接しているこのオケよりずっと良い印象を持った、ということを除いて。
注目の小川典子。彼女が弾く、リストがピアノと管弦楽用に編んだ「さすらい人幻想曲」を聴くのは初めてでしたが、小川にとっても初めて弾くレパートリーとのこと。本人がそう言ってましたから間違いありません。
このオリジナルであるピアノ・ソロ版は、シューベルトのピアノ曲では最も難しい作品ですし、恐らく作曲当時においては全ピアノ作品の中でも最難曲だったのでしょう。
実際、作曲したシューベルト自身が最後の第4部でいつも引っ掛かってしまい、“なんて難しいんじゃ。オレには弾けないッ、悪魔でもなきゃこんなの弾けないゾ!!” と言ったのは有名な話で、書いた本人がよく言うよ。
リストがこれをオケ版にしようと思い立ったのは二つ理由があって、一つはあまりにも難しいのでピアノと管弦楽に分担分けしようと思ったこと。
もう一つの理由は、シューベルトが採用した「変容」 transformation を用いた作曲技法に着目したからですね。
リストはこの作品から多くを学び、ピアニストを引退してからも、これだけは愛奏を続けたというエピソードが残っています。自身の作曲技法のバイブルにもなった曲ですからね。
小川典子のピアノは、恐らくシューベルトを上回るレヴェルでしょう。彼女がスタインウェイ・アーティストとして自他共に認められていることを、改めて強く印象付けるピアニズムを披露してくれました。
ピアノは、その性能をトコトン引き出してこその世界、ペラペラ・チャラチャラした音ではどうにもならないという当たり前の事実。そのことを物の見事に見せ付けた感じです。
特に第4部冒頭、四声部のフーガは見事でした。オリジナル版も知る彼女にとって、協奏曲版にはそれなりの難しさがあるでしょう(技術的な意味ではなく)が、そこはプロ。よく入っていたサントリーの聴衆を唸らせましたね。
どうやら小川のピアノに圧倒されたのは聴衆だけではなかったようで、マエストロ・エッティンガーその人の断っての要望で、同じリストのカンパネラがアンコールされました。小川と荒井コンマスが “こんな長いコンサートでアンコールしちゃっていいのォ” と相談している風情でしたからね。
この日のカンパネラ、恐らく予定外のことで、格別のスリルに満ちていました。
悪い癖で、どうも感想が長くなってイカン。肝心のメインについては出来る限り簡単に・・・。
エッティンガーはファウスト交響曲をよほど得意にしているようで、恐らく彼の勝負曲なんでしょう。70分に及ぶ大曲を、全く飽きさせず、一気に聴かせた手腕には脱帽しました。最後の声楽も立派でしたね。
オーケストラの配置を対抗型にしたことも成功の一因。特に第3楽章「メフィストフェレス」では、両ヴァイオリンの掛け合いが抜群の効果を挙げていました。
エッティンガー、この人はオペラ畑の指揮者ですね。以前、新国立でコジを見たことがありますが、そのときもピットから全舞台を掌握していたことを思い出します。
オペラ畑の指揮者というのは、いろいろな意味で「芝居ッ気」に富んだ表現を取ります。オペラでは芝居気がなければ劇場を納得させることが出来ない場面が多々あるからでしょう。
このタイプは、日本人指揮者を例に引けば、大野和士と上岡敏之が挙げられると思います。彼らに共通するところは、正しくその芝居気。オペラと同じ感性でシンフォニーもやってしまうところもソックリ。こうなると、後は好き嫌いの範疇ですな。
私はどちらかというとこのタイプとは波長が合いませんが、それは時と場合によります。今回のリストやワーグナーの作品に関しては、エッティンガーの良い面が全て出た、という感想を持ちました。
大切なことは、今回の定期のプログラムには「テーマ」が設けられていたこと。それはズバリ、「変容」であり「救済」でしょう。エッティンガー自身がメッセージとして書いていますし、解説にも詳しく書かれています。
このようにプログラム自体にテーマを設定するところにも、エッティンガーの芝居気が表れていると考えたいですね。
プログラムについて書いた序、東フィルのプログラム誌についても一言。
メインの書き手は、最近テレビにも露出する機会が増えている野本由紀夫。解説というよりアナリーゼに近い内容は、私には極めて興味深い読み物でしたが、コンサート当日に手渡されてから全てを吟味して鑑賞するには、チト内容が深過ぎ、一般的聴衆には荷が重いようにも感じました。
更に驚くべきは、英文解説が充実していること。毎回のことか否かは分りませんが、今回はエイプリル・L・ラカーナ女史 April L. Racana の担当。
この解説が極めて優れたもので、要領もよく、コンサートの聴きどころを的確に指摘しているのです。指揮者の意図もシッカリ取り入れられ、これだけ内容豊富なプログラムを提供しているのは東フィルが随一ではないでしょうか。読響のプログラム誌とは雲泥の差。
ここまでやらなくても十分だと思いますが、他の在京オーケストラも見習って欲しいものだと思います。
いけね、また長くなっちゃった。
お、そうそう。コンサートそのものもオッソロシク長くて、全プログラムが終了して時計を見たら10時10分前。道理でソワソワ、イソイソと席を立った人が目立ったわけだ。

 

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