読売日響・第478回定期演奏会

昨日、大寒の最中にしては暖かい中、サントリーホールに出掛けました。ホールの中もむしろ暑い位に感じたのは、聴き手が寄せるカリスマ指揮者・上岡敏之への期待が高かったためでしょうか。
ウィーン繋がりのプログラムで、以下のもの。
マーラー/交響曲第10番~「アダージョ」
モーツァルト/ピアノ協奏曲第23番イ長調K488
     ~休憩
ヨゼフ・シュトラウス/ワルツ「隠された引力」(ディナミーデン)
R.シュトラウス/歌劇「ばらの騎士」組曲
 指揮/上岡敏之
 ピアノ/フランク・ブラレイ
 コンサートマスター/藤原浜雄
 フォアシュピーラー/小森谷巧
私の感想はややバラツキの大きいもの。上岡ファンの皆様はお読みにならない方が良いでしょう。ここで戻るボタンを押してください。
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さて、ホールに入って気が付いたのは二つ。一つはテレビ・カメラが何台も据えられていたこと。マイクも林立していて、大掛かりな録音セッションが組まれています。
先月も収録があったと記憶していますから、どうやら日本テレビが方針を転換したのでしょう。
“態々海外のオーケストラを収録しなくとも、日本にも良いオーケストラがあるじゃないか。それも読売系で・・・。”
灯台下暗し。
もう一つは、通常のコンサートに比べて指揮者の周囲が広く開けられていたこと。これは後で納得したのですが、上岡はよくしなる長めの指揮棒を使い、左手で手すりに摑まりながら、その棒を思い切り突き出して指揮をするのです。弦の頭の連中は危なくて近寄れない。
その上岡、やはり彼はオペラ畑で本領を発揮するタイプでしょうか。読響を常時振っている指揮者とはかなり趣を異にします。
相当に思い切った仕掛けを用意していますし、作品を面白く聴かせることには天才的な閃きが感じられます。
最初のマーラーは彼の卓越した才能が見事に開花した一例。私はこの作品からこれほど多彩で、一音一音に意味を持たせ、劇的な内容を引き出した演奏を知りません。「超」の一文字を付けても良い名演でした。
この演奏を聴いて、私は初めてマーラーの音楽がシェーンベルク等の第二ウィーン楽派に引き継がれていったことを実感として体験できたほど。上岡にブラヴォーですね。
ところがこれが逆転するのがモーツァルト。私は以前に彼のリンツ交響曲を聴いたことがありますが、目指す音楽は同じ。あくまでもレガートに徹するのです。
一つの音の開始は何処から始まったのか判らないくらいソット・ヴォーチェ、その音が何処で終わったのか判らない程に空中に投げ出してしまう。その結果生まれるのは、「縹緲たる」モーツァルト。
それはピアノを弾いたブラレイにも共通することで、あくまでも弱音が基本。サントリーの大ホールでこのタイプのモーツァルトを演奏するのはそもそも無理があります。
カデンツァはモーツァルト自作のものを弾きましたが、暫くはモーツァルトとは思えないほどでした。こうなると、小賢しい事を言うなとのお叱りを覚悟の上で、様式的に問題ありと批判してしまうのでした。
ブラレイが上岡「に」合わせたのでしょうか、上岡「が」合わせたのでしょうか。いや、両方の音楽なのでしょう。
凡そクラシズムとは無縁のモーツァルト。
後半は上岡の個性が更にヒートアップします。
ヨゼフの作品は、次の「ばらの騎士」への布石。コンサート全体の演奏時間から考え、結果論ではありますが、無くても良かったかな。
メインのリヒャルト。これは最初の3小節が全てを象徴していました。“ここまでやるか!”というテンポ・ルバート。オペラ本体にせよ管弦楽組曲にせよ、ここまで思い切った仕掛けを施した「ばら」を私は聴いたことがありません。
思うにシュトラウスは、たとえイン・テンポで演奏したとしても、多量にロマンティックな甘さを含んだ作品です。上岡のように輪を掛けたコッテリ系の演奏で聴くと、私のような老いたる耳には些か辟易の感が否めません。
ゾフィーとオクタヴィアンの場面の、音楽がほとんど止まってしまう遅さ!
この表現は、恐らく読売日響だから辛うじて持ち堪えられた演奏だと思います。
(私は、マーラーとシュトラウスは背中をピタリと付けながら、全く反対の方向を向いた作曲家だったと考えています。)
終演後の壮絶な拍手喝采は、“カンブルランの次は上岡にしてくれぇ”という聴衆の叫びのように聞こえました。
上岡敏之、私の価値基準と嗜好からは大きくはみ出した指揮者です。恐らく想像を遥かに超える天才指揮者なのでしょう。
それでも私は、古典派からブルックナーまでのシンフォニーを彼の棒で聴きたいとは思いません。
逆に、シェーンベルクやツェムリンスキーは他の誰にも真似のできない音楽を創り出してくれるような気がします。

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