日本フィル・第612回東京定期演奏会

ここ数年、7月定期は広上淳一に委ねる、というのが日本フィルの恒例になっています。横浜と東京の2回、それは私にとっても最も心華やぐ刻でもあります。今年のプログラムは、
ハイドン/交響曲第92番ト長調「オックスフォード」
     ~休憩~
武満徹/樹の曲
     ~休憩~
ストラヴィンスキー/詩篇交響曲
 指揮/広上淳一
 合唱/東京音楽大学
 コンサートマスター/扇谷泰朋
 フォアシュピーラー/江口由香
パッと見てオヤ、と思われるかも知れません。そう、休憩が二度入るのです。プログラムではハイドンの後に15分とだけ記されていましたが、実際には武満の後にも15分の休憩。
編成が大きく、かつ風変わりなものなので止むを得ないのかもしれませんが、反ってこれが良い効果になっていたように思います。
そのプログラム、実に凝った内容。いかにも「通」向けとも言えますが、どれも傑作の中の傑作。普段あまり取り上げられないのが不当だと言っても過言でないような名曲でしょ。
“名曲って何だ”という議論もあるでしょうが、これだけ密度の濃いプログラムは稀。あえて言わせて頂ければ、このコンサートに出掛けないクラシック・ファンはモグリでしょうが。
(二度の休憩がありながら、終演は8時45分頃だったでしょうか。時間的には短かめですが、音楽的には十二分に満足できるもの。その意味でも見事なプログラムです)
中央に置かれた武満作品。先シーズンから始めた「日本フィル・シリーズ」の名作の再演企画の一環です。「樹の曲」は1961年に渡邊暁雄の指揮で世界初演されたもの。録音で聴いたことはありますが、ナマは初体験でした。
全体は10分にも満たない短いものですが、内容は後の武満エッセンスがギュッと凝縮されたもの。いわば武満の原点、という感想を持ちました。
スコア(ペータース版)を見ると、武満には珍しく全小節が4分の4で書かれています。全体は僅かに90小節。
マエストロ・サロンでも語られていましたが、今回の演奏に当たって広上はオケ所蔵の手書スコアを閲覧したそうです。キチンと美しく書かれた手書スコア、“2億円ぐらいの価値があるんじゃない?” とマエストロが述懐していたように、正に日本フィルの、いや我が国音楽界の至宝。
武満に拘る広上の、徹底して透明なサウンドを追及した名演。
メインのストラヴィンスキー。
3シーズンかけて日本フィルが取り組む、「交響曲」に新たな光を当てるシリーズ。合唱が入り、宗教的テキストを用いているとは言いながら、ストラヴィンスキーのコンセプトはあくまでも「シンフォニー」。(もっともストラヴィンスキーの意図するシンフォニーとは古典派のそれではなく、言葉の原義ですが・・・)
オーケストラ編成はヴァイオリンとヴィオラ及びクラリネット属を欠く代わり、管楽器は基本が5管という特殊なもの。視覚的にも珍しい光景が展開していました。
(指揮者左横にハープ、その後にピアノ2台。チェロは指揮者前から右に並び、コントラバスは右奥。合唱はP席。従ってこの会はP席には聴衆は入りません)
オルフが「カルミナ・ブラーナ」にパクったんじゃないか、と思われるような第1楽章。逆にバッハ(音楽の捧げもの)から借用したような第2楽章。
そして極めつけは第3楽章。3度出現するハレルヤが、不協和音で書かれているにもかかわらず、実際にホールに鳴り響く時のハーモニーの美しさ。
ここは東京音大の若々しいコーラスを称えましょう。
指揮者「ヒロカミ」の本領、その実力が誰にでも聴き取れたはずなのが、冒頭のハイドン。
広上のハイドンへの愛着、拘りは並大抵のものではなく、この日の「オックスフォード」の素晴らしさは言葉で書き尽くせるものではありません。
書かれた音符を指示通りに演奏したのでは、決してハイドンにはならない。本当の指揮者だけが演奏可能な世界。それがハイドンです。
二つのオラトリオ、第102番や「うつけもの」で痛快な名演を繰り広げてきた広上のオックスフォード。
これを聴いてしまうと、他のどんな大指揮者のハイドンも聴く気がしません。
これを逆に表現すれば、ハイドンを振れない人は本当の意味で指揮者じゃない。
ハイドン好きの私が広上淳一に私淑する理由。この演奏を聴けば納得してもらえるかな。
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1件の返信

  1. 清水浩憲 より:

    日本フィルの定期の話、うれしいです。
    また、書いてくださいね。
    そのうち、アドレス書きます。

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