二期会公演「サロメ」

昨日は上野の東京文化会館で二期会公演「サロメ」の初日を見てきました。都民芸術フェスティヴァルへの参加公演ですから、オーケストラは都響の受け持ちです。
この回の公演は二期会、オランダのネザーランド・オペラ、スウェーデンのイェーテボリ・オペラとの共同制作で、プログラムには2009年11月のネザーランド・オペラでの公演写真が掲載されていました。

本公演はこの後23・25・26日と続きますから種明かしになるような感想は書きたくないのですが、そうもいきません。どうか23日以降の公演を観る予定の方は、読むのはここまでにして下さいな。戻るボタンを押して後の楽しみに・・・。
取り敢えず主なキャストは以下の通り。ダブル・キャストの第一組です。

サロメ/林正子
ヘロデ/高橋淳
ヘロディアス/板波利加
ヨカナーン/大沼徹
ナラボート/水船桂太郎
小姓/栗林朋子
その他
 管弦楽/東京都響交響楽団
 指揮/シュテファン・ゾルテス
 演出/ペーター・コンヴィチュニー

     *****

感想を先に書けば、これは実に面白いプロダクションでした。とは言っても、コンヴィチュニー演出の舞台では極めて雑多に感じられる「無意味な行動の堂々巡り」(プログラム解説から引用)の連続なので、その一つ一つを理解するのは私の能力の限界を超えていました。
譬えれば、ジグソーパズルの一片一片は解釈できても、それが全体像にピタリと合致しない状態。従って感想も断片的にならざるを得ません。敢えてその断片を列記すれば、

サロメと言えば「七枚のヴェールの踊り」でのサロメのストリップとヨカナーンの生首が見所であり、スキャンダルの中心でもありました。
しかし当演出ではストリップは出ません。それを楽しみにしている人は行かない方がよろしい。
また生首は出てきますが、ヨカナーンは死にません。聖者自身が自分の生首と思われるものを抱きしめるシーンもあるほど。

当演出の美術・衣裳を担当したヨハネス・ライアカーが思い付いたのは、「登場人物全員が、初めから終わりまでコンクリートの地下壕に閉じ込められている」という設定で、舞台は核シェルターの内部に置かれています。
サロメは当然のこととして、ヘロデもヘロディアスもヨカナーンも最初から最後まで舞台に乗っている。
これは即ち、全員が避難所から出ることが出来ず、ストレスまみれで、アルコールやドラッグに逃避していることを意味します。それが冒頭に書いた「無意味な行動の堂々巡り」に繋がるのでしょう。

核シェルターの内部に設置された祝宴の舞台には横に広いテーブルが並べられ、何処かで見たような錯覚を催させます。
そう、最後の晩餐。中央に座るヨカナーンの両脇に、時折13人が並ぶ瞬間もあって、あの名画を意識的に再現しているのでは、と思わせます。でもそれが何処に繋がるのか・・・。

その混乱の中から見えてくるのは、全体に3か所鏤められたシンフォニックな場面に大きな力点が置かれていること。
即ち、①第2場と第3場を繋ぐ間奏(練習番号59から66まで)、ヨカナーンが穴倉から引き出される場面。但し、先にも書きましたが、ヨカナーンは最初から舞台の祝宴に参列しており、ト書きは完全に無視されています。
②第3場と第4番を繋ぐ間奏(練習番号141から154まで)、ヨカナーンが穴倉に連れ戻される場面(上記同様)。
③有名な「七枚のヴェールの踊り」。

この三つの場面夫々に実にアンモラルなシーンが展開されます。
①では何とサロメが殺され、その肉を食らう場面。このカニバリズム(人喰い)はもちろん原作には無く、最初私は全く理解できない舞台でした。もちろんサロメは生き返るのですが、何故コンヴィチュニーはこんなシーンを捏造したのか?
②では、自殺した(原作の設定では)ナラボートに対し、男性全員が死姦を行う場面。さすがにここは途中でカーテンが降ろされ、女性(サロメ、ヘロディアス、小姓)3人がカーテンの外で倒れ伏します。プログラムによれば、「死に直面する男達の教儀的集りが、文字通り閉じられるカーテンの外に置かれる女性たちを疎外する」という設定。
そして③はサロメのストリップではなく、サロメによって踊らされる人たち。やがてサロメはコンクリートの壁にドアを描き、それを開けようとすれど果たせず。それを見て全員が壁にドアを描く。この脱出不可能な行為に続くのは、互いの殺し合い。
ここもプログラムから引用すると、「陶酔、自由への衝動、絶望、攻撃等の各段階が明らかにされる」という発想なのです。

更に断片を続ければ、台詞と行為の矛盾。
ヘロディアスの言葉に“自分には高貴な血が流れている” とありながら、コンヴィチュニーが描くのは徹底して下品なヘロディアス。言葉は不適切かもしれませんが、正に「Bitch」でしょう。
ヘロデもそう。原作ではナラボートは自殺することになっていますが、この演出ではヘロデが射殺します。それでいて“俺は殺せ、などと命令していないぞ” と周囲を叱りつける。
もちろんこの矛盾はコンヴィチュニーが意識して取り入れた設定で、確信犯的犯罪とでも言っておきましょうか。

そして最後、サロメの口づけはヨカナーンの生首にではなく、生きているヨカナーン本心に対してのキス。生首が宙吊りになって昇っていくのは、何の象徴?
この演出ではサロメもヨカナーンも殺されるのではなく、まるでトリスタンとイゾルデのように、ヴィオレッタとアルフレードのように、ミミとロドルフォのようにシッカリしっかりと抱き合い、このシェルターから脱出していくのです。音楽はここで初めて明るい調子に変わり、二人の将来を祝福する。

では最後にヘロデによって発せられる“あの女を殺せ” はどうなるか?

実は、私は開演前にプログラムにざっと目を通し、この言葉をコンヴィチュニーがどう扱うかが判ってしまいましたね。恐らくこの台詞は舞台で発せられるのではなく、客席から出されるのだろう、と。
そして実際、客席にいた老紳士が突然立ち上がり、日本語で“あの女を殺せ” と叫ぶのです。隣で制止しようとしていた女性も、当然ながら「ぐる」でしょう。彼らはカーテンコールの途中で、何か大声で喚きながら退出していきました。もちろんこれも演出の裡。

そのカーテンコール、次々と登場する歌手たちへの喝采が終わってコンヴィチュニーが舞台に出ると、一斉にブーイングの嵐が巻き起こりました。私はこれ程のブーイングを体験したことはありません。
しかしブーイングは、実は大成功の証。人々の感じた拒絶感は、実は許容が無意識に表れた反証でもあるのです。それは古今東西の歴史が証明しているではありませんか。
(このブーイングもコンヴィチュニーの演出だとしたら・・・。いや、それは考えますまい)

歌手や演奏について触れるスペースはありませんが、全員のこの歌唱を大熱演と賞せずに何としましょうか。
それでもショルテス指揮の都響の美し過ぎるオーケストラがなかったならば、そしてシュトラウスの見事な音楽がなかったならば、この公演は成立しなかったでしょう。

私がサロメを見たのは、大阪国際フェスティヴァルで行われた日本初演のテレビ放送(一部ではありましたが)。クリステル・ゴルツの踊りをドキドキして見た当時、ほぼ50年後にこの斬新な舞台に接することが出来るなどとは想像だに出来ませんでした。
改めて半世紀という「刻」の流れの恐ろしさ、残酷さを思い知らされた一夜でしたね。

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