日本フィル・第698回東京定期演奏会

井上道義と共に九州を巡って来た日本フィル、3月に入っていきなりの東京定期が始まりました。注目度の高い公演が続く春シーズンの第1弾でもあります。
その中でも抜群の企画力でそそるのが、下野竜也が振る次のプログラム。仮に私が地方に住んでいたとしても東京に出掛けたでしょうし、これが広島か京都で取り上げられるのであれば、わざわざ東京から遠征したい内容じゃありませんか?

スッペ/喜歌劇「詩人と農夫」序曲
尹 伊桑(ユン・イサン)/チェロ協奏曲
     ~休憩~
マクミラン/イゾベル・ゴーディの告白
ブルックナー(スクロヴァチェフスキ編曲)/弦楽五重奏曲ヘ長調より「アダージョ」
 指揮/下野竜也
 チェロ/ルイジ・ピオヴァノ
 コンサートマスター/扇谷泰朋
 ソロ・チェロ/辻本玲

一見するとバラバラに並べられたような印象ですが、日本フィルのホームページなどで配信されている動画を見れば、下野の意図が十分に理解されます。もちろん前半はチェロ繋がりであり、その対比の妙が後半にも仕掛けられている。要旨は配布されたプログラム誌にも「特別インタヴュー」の形で載録されていますから、各自確認してください。
ということで、4曲ともウッカリ聞き過ごすことのできない作品、演奏でしたが、恐らく大部分の人が耳にしたことがあるのが、冒頭のスッペでしょう。私のようなオールド・ファンは子供の頃からレコードで散々聴き馴染んできましたが、案外生演奏に接する機会は少なく、ましてや定期演奏会で出会うのは稀有なこと。戦前はいざ知らず、私の記憶にあるのはN響がワルベルクやスイトナーがウィーンの楽しい作品を集めた演奏会で聴いたことがある位なものです。

スッペとイサン作品の舞台配置換えの時間を使って下野氏が短く挨拶もされましたが、スッペが置かれたのは次のチェロ協奏曲との関係から。同じチェロと言う楽器が、時代と環境が異なればこうも役割が異なるか、ということを追体験してもらうのが意図でしょう。スッペの序奏部に置かれている朗々と明るいチェロ・ソロは、日フィルが誇る若きリーダー、辻本。
しかし下野の繊細な目は、これに留まりません。Allegro strepitoso (やかましいアレグロ)という珍しい表情記号に続いて主部に入り、ワルツ風の小粋なメロディーを経て、一旦音楽は Sostenuto で一段落。ここでチェロ・パートに悲しげな一節が登場しますが、何と下野はここもチェロのソロで弾くように指示?するのでした。帰ってから慌ててスコアを引っ張り出してみましたが、スッペはここ(第247小節からの3小節)に solo とは書いておらず、私の貧しい記憶でも、ここを一人で演奏したのを聴いたことはありません。下野を含め、このことを指摘していた人はいませんでしたが、それを敢えて言わないマエストロ。この辺りに彼の上質で格調高いユーモアを感じてしまうのでした。

ドキドキのスッペに続いては、これが同じ楽器か、と言うほどにシビアな世界のチェロ協奏曲。30分間休みなくチェロとオーケストラが格闘する作曲者自伝的な作品で、聴き易い個所は唯の一音符もありません。
韓国出身で、戦前に大阪と東京でチェロと作曲を学んだ尹 伊桑。その激烈な生涯はインターネットなどで検索して頂くとして、私が彼の作品でいつも感ずるのは、大陸と地続きである祖国の乾燥した環境です。今回のチェロ協奏曲は初めてナマで接しましたが、今回も彼の生涯だけでなく、幼時に過ごしたであろう気候が同様に厳しいものであったろう、ということを真っ先に感じてしまうのでした。

プログラム・ノート(齋藤弘美氏)によれば、休息のない全3楽章から成り、第1楽章は更に二つに分けられる、とのこと。作曲者自身が書いた音盤の解説だそうですが、Bote & Bock 社のスコアには、楽章の区分や表記は全くありません。従って私には3楽章作品のようには聴こえず、大きなカデンツァを二度含む長大な単一楽章作品として聴こえてきました。楽器編成で特徴的なのは、オーケストラにはチェロが欠けていること。今回はファーストとセカンドのヴァイオリン群が左右に対向配置のように置かれ、中央にヴィオラ、舞台上手奥にコントラバス。管楽器は2管が主体で、打楽器多数。
そのカデンツァ、最初のものは間にオーケストラの合いの手を挟み、全てピチカートで演奏されます。二度目のカデンツァは逆に、全編アルコ。ここでも間にオーケストラの合いの手が入りますが、ここで第2打楽器奏者が3連音で静かに連打する Templeblock (プログラムで木魚と表記されている楽器か?)が真に印象的で、解説にある「監獄の中で死んだ囚人の霊を弔う仏壇の木鐸の音が深夜に聞こえてくる」という個所なのでしょう。

イサン・ユンのスコアは今回初めて見ましたが、現代作品ではありながら、全曲通して4分の4拍子で書かれていることに気付きました。もちろん速度は時折変化しますが、いわゆる変拍子は一切登場せず、2拍子や3拍子も出てきません。これが彼の作曲スタイルなのか、この作品だけの特色なのかは不明ですが、恰も彼が生涯を通して信念を変えなかった、ということの象徴でもあるのかと考えた次第。
チェロもオケも初めて挑戦したということで、大熱演。その気迫と使命感に聴き手も思わず引き込まれてしまいました。さすがに聴き慣れない作品だけでは、と思ったのか、ピオヴァノは自身の故郷の民謡、と紹介してアンコールを一つ。アブルッツォ(イタリア)地方の子守歌だそうで、弾きながらメロディーをハミングしていく耳に優しい一品です。

この演奏会、これで驚いちゃいけません。後半には更なる衝撃が待ち受けていました。冒頭に紹介した動画でも、当日配布された案内でも、スッペの後のトークでも触れられていたように、マクミランの問題作に続き、そのままブルックナーの演奏に流れ込むという趣向。そう指示されなくとも、2曲ともとても直ぐには拍手できないような音楽が続きます。
スコットランド出身のマクミラン (1959-)の作品は、一言で言えば「魔女狩り」を題材にした作品。17世紀中頃に実在した自称「魔女」イゾベル・ゴーディの体験(拷問ではなく自主的供述)がほぼ告白通りに展開していき、最大の聴き所は13連打からのスリリングな音楽。ストラヴィンスキーは春の祭典で11連打を繰り出しましたが、この13は「告白」で13人の魔女集団が登場するから、とのこと。4分の4に加え、8分の7、8分の9拍子、5連音符などが乱舞する様は、正にハルサイの英国版。それでも一定の範囲内で収まっているのが如何にもイギリス、プロムス委嘱作品だな、と感じてしまいました。

譜面には (like s sigh)、(like a scream)、(shrieking)、(frantic, like an eruption)などという表情記号が記され、コントラバスが竿の部分を両手で激しく叩いたり、鉄床を思い切り叩いたりと、見所聴き所満載のスコアでもあります。ブージー社のスコア表紙に描かれたイラストが、また面白い。
現代でも起こり得る魔女狩り。マクミランは最後に全オーケストラがフォルテ5つで「ハ音」をクレッシェンドさせ、管楽器は全てベルアップで圧倒的な音響で全曲を締め括りましたが、最後に misere nobis と書き付けます。「イゾベル・ゴーディのために決して歌われることのないレクイエム」はこうして幕を下ろしましたが、下野の秀逸は、この後に祈りの中の祈り、半分に落とした照明の下でブルックナーを、ゴーディへのレクイエムとして捧げたのでした。

原曲であるブルックナーの弦楽五重奏曲は、弦楽四重奏に第2ヴィオラを加えた編成。作品の主調はヘ長調ですが、第3楽章のアダージョは♭が6つも付いた変ト長調で、ピアノ3つからフォルテ3つまでの極めて振幅の大きな音楽です。室内楽作品に縁が無かったブルックナーに作曲を薦めたのはヘルメスベルガーだったそうですが、実際に弦楽五重奏が完成したのは、それから18年も経ってからのこと。ヘルメスベルガーの意向に沿ったものであったかは、判りません。
このアダージョを弦楽合奏用に編曲したスクロヴァチェフスキは、下野がこのプログラムを提案したときには亡くなった直後のことで、下野としては鎮魂の意味を籠めての選曲でした。

二つの作品を休みなく演奏するという事例、例えばジェルメッティはラヴェルのパヴァーヌとボレロを続けて演奏しますし、インキネンがシベリウスのダ6交響曲と第7交響曲を恰も一つの作品のように続けて指揮したこともありました。
今回のように作曲者も時代も異なる2曲を、しかも定期演奏会で試みるというのは初体験。それが少しの違和感も無く、最初からそのように意図されていたように聴こえたのは、やはり下野の卓見と評すべきでしょう。これは実際に聴かなければ判りません。知らない曲ばかりじゃ、と言っているあなたこそサントリーホールに足を運ぶべきなのです。

 

 

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