読売日響・第608回定期演奏会

5月21日の金曜日、赤坂のサントリーホールで開催された読響5月定期のレポートです。
本来なら翌朝、つまり土曜日の午前中に感想を纏めてブログにアップするのが小欄の習慣なのですが、翌日は朝から京響の名古屋公演を聴くために出掛けていて時間が取れず、一日遅れでの記事になってしまいました。別の演奏会を挟んでの感想ですから、あるいは頓珍漢な文章になるかも知れません。悪しからず。

ということで、こんなプログラムでした。

マルティヌー/過ぎ去った夢
モーツァルト/ピアノ協奏曲第21番ハ長調K467
     ~休憩~
マルティヌー/交響曲第3番
 指揮/下野竜也
 ピアノ/藤田真央
 コンサートマスター/林悠介

この定期、本来ならカナダから71歳のピアニスト、アンドレ・ラプラントを迎える筈でしたが、例によって海外渡航規制の為に来日が叶わず、わが国のホープ藤田真央に替った経緯があります。曲目の変更はありませんでした。ラプラント氏には申し訳ないけれど、(個人的には)ラッキーだったかな。
私にとって藤田は初体験。2019年のチャイコフスキー国際コンクールで2位になった時から大きな話題を集め、私もナマで聴くチャンスを探していましたが、予定していた回は全て中止に。今回が念願叶っての初体験となったわけ。しかしながらネット配信が急発展したこともあり、彼の演奏はベートーヴェンの第3・4ピアノ協奏曲など、ライブストリーミングで満喫していました。ヒョコヒョコとステージに登場した時も、初めて感は一切ありませんでしたね。

で、モーツァルトから始めましょう。
藤田のモーツァルトは、世界が認める絶品。なるほど美しいピアニズムに惹き付けられます。もちろんただ美音というだけに留まらず、音楽的な捉え方、スケールの大きさはモーツァルト1曲だけからも感じ取れました。
圧巻だったのは、第1楽章と第3楽章で弾かれたカデンツァ。K467にはモーツァルト自身のカデンツァが残されておらず、ピアニストとしては考え所。今回が藤田が弾いたものは、私はこれまで聴いたことが無いカデンツァだと思いました。

モーツァルトの時代を考えれば、思い切り現代的感覚に裏打ちされたもの。もしかすると藤田真央自身が綴ったカデンツァなのでは、と思いました。ネットなどの情報では、彼は同じモーツァルトの第20番協奏曲で自作のカデンツァを披露しているということですから、21番も自作の可能性がありましょう。御存知の方がおられましたら、是非ご教示頂きたいと思います。
客席の反応も熱狂的で、アンコールしないわけにはいきません。選ばれたのは当然ながらモーツァルトで、ピアノ・ソナタ第15番ハ長調K545から第1楽章。易しいソナタとして誰でも知っている楽章ですが、やはり藤田は只者じゃない。遊び心を見事に制御しながら装飾を織り込み、聴き手をワクワクさせる音楽性は大したもの。この若者は単なるピアニストを超えて音楽家。何時の日か指揮者・作曲家として活動していたとしても、私は驚きません。

どうしても藤田のモーツァルトに注目が集まってしまう定期でしたが、前後に演奏されたマルティヌーが聴けたのが大きな収穫でもありました。特に冒頭で紹介された「過ぎ去った夢」は、マルティヌーのプラハ時代に書かれた珍しいもの。プログラムには書かれていませんでしたが、これまで日本で演奏されたことがあるのでしょうか。あるいは下野のことですから、何処か別の機会で紹介済みなのかもしれません。
何れにしても私は初体験で、プログラムが発表された時にはこんな作品があるということも知りませんでした。

で、予習と思って探したところ、何とペータース社からスコアが出版されていて、ペルーサル・スコアの形で無料でダウンロード可。作品は、マルティヌーの自筆譜の形で残されていたものをパーヴェル・イェラベクという方が校訂したうえで出版された由。このスコアが世に出たことで、日の目を浴びる存在になったものと思われます。
プログラムの曲目解説(澤谷夏樹氏)にも書かれていましたが、作曲家はもともとこの作品を管弦楽組曲「サテュロスの木立」の中心楽章として構想していたようですが、両端楽章がどのようなものだったのかは分かっていません。この内容につていは、マルティヌー自身が自筆譜にペン書きしているということが、スコアの前書きに書かれていました。

1920年、プラハで作曲。12分ほどの短いもので、イングリッシュ・ホルンの活躍が目立ちます。確かにドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」連想するような開始で、全体的にフランス印象派を連想させる筆致ではあると思いましたが、これに拘る必要もないと思います。

メインは交響曲第3番。マルティヌーの交響曲は日本でも案外演奏されていて、先日亡くなったばかりのトゥルノフスキー、ビエロフラーヴェク、ノイマン、フルシャなどが思い浮かびます。N響でもサヴァリッシュが第4番を取り上げたような記憶もあります。第3番は、読響ではフランティシェク・イーレクが指揮したことがあって、今回が確か二度目。イーレクは1984年のことで、私は聴いていません。
マルティヌーの交響曲は、全てアメリカに移住してから書かれたもの。第3番は、第1番と同じくクーセヴィツキーとボストン交響楽団の為に書かれたもので、こちらはクーセヴィツキーのボストン交響楽団常任指揮者就任20周年を記念する委嘱作品。ベートーヴェンと同じ番号、エロイカ交響曲を意識した作品である、という指摘もあります。

お祝いの作品としては全体的に暗い音調で、変ホ短調が基調なのだそうです。1944年の作品で、第2楽章までは正に戦時中の作曲ということで、音調が暗いのは当然かもしれません。
ただ、第3楽章の作曲開始前に連合国軍がノルマンディー上陸作戦に成功したというニュースを聞いたそうで、第3楽章は次第に明るい響きが優勢になっていくのが特徴と言えるでしょう。特に練習番号18の Andante poco moderato からは薄日が射し始め、ドヴォルザークのレクイエム冒頭の引用(実はバッハのロ短調ミサからの引用でもあり、ホルンからイングリッシュ・ホルンに引き継がれる)が出てからはハ長調の明るい響きとなり、最後は穏やかに締め括られます。

自由と平和への期待を感じさせる終結部を聴いていると、どうしても今の時世と重ね合わせてしまうのは私だけでしょうか。下野の指揮は、例えばネーメ・ヤルヴィの音盤などに比べるとかなりテンポが速く、ストレートにマルティヌーに切り込む姿勢が如何にも現代を感じさせるものでした。
ところで解説にも触れられていましたが、第2楽章にチャイコフスキーの第5交響曲の第1楽章序奏主題の引用があるとのことでしたが、私にはどうも納得がいきません。7小節目から第1・第2ヴァイオリンのユニゾンで奏でられるメロディーのことでしょうが、どうしても私にはチャイコフスキーの引用とは聴こえません。偶然同じ流れになっているとしか思えませんが、引用であるという事実があるのでしょうか?

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