読売日響・第171回東京芸術劇場マチネーシリーズ
読響の11月定期(第542回)は珍しく土曜日に行われ、11月22日は生憎と日本フィルの横浜定期と重なってしまいました。どちらも会員である私としては大いに悩んで、と言いたいところですが、すんなりとインキネンを優先して横浜に出掛けてしまいました。感想は既に認めた通り。
しかし読響の曲目も以下の興味深いもので、券を無駄にしてしまうのも勿体無いと考え、同じ演目で行われる表記のコンサートに振り替えて聴いてきました。
エルガー/チェロ協奏曲
~休憩~
エルガー/交響曲第3番(ペイン補完)
指揮/尾高忠明
チェロ/宮田大
コンサートマスター/小森谷巧
かつて読響は池袋でも良く聴いていました。会員では無かったのですが、不思議とチケットが回ってくる巡り合わせが多く、このホールで聴く読響も珍しいものではありません。
しかし時は過ぎ、そういう好都合にも恵まれなくなってからは余り縁の無いシリーズ、このホール自体も改装されてから二度目の体験だと思います。
芸劇マチネーというシリーズは人気があるようで、私共に回ってきた席は1階後方の右端という余り芳しくない場所。客席もサントリーに比較して平均年齢が高いようで、ここでこのプログラムは厳しいんじゃないか、という不安も過ります。
振り替えてまで聴きたかったのは、もちろんエルガーの第3交響曲。アントニー・ペインが補筆完成させた噂は当時から聞いていましたし、ブージーからスコアが市販された際にも直ぐに購入、CDも3種類ほど集めて聴いてきた作品です。
一度はナマで聴きたいと思っていましたが、遠方だったり、今回と同じように他の演奏会とバッティングしたり、中々機会に恵まれなかった経緯もありました。普段ならサントリーの定席で聴けたはずですが、余程私とは相性の悪い交響曲と見えますね。
ということでオール・エルガー・プログラム。エルガーには定評があり、既に札響ともこれを録音している尾高氏の指揮ですから、期待して出掛けたのですが・・・。
前半は人気随一のチェリスト、宮田大のソロで晩年の傑作協奏曲。さすがに安定した技巧で朗々とチェロを響かせます。バックも落ち着いた音色で支え、堂々たるエルガーを堪能しました。これでもう少しエルガーの諦観というか、悶々たる暗い情熱が感じられたら一層素晴らしいものになったでしょう。
アンコールもありましたが、バッハに似たバロックの小品。1分ほどであっという間に終わってしまう音楽で、バッハじゃないことは明らか。終演後にロビーの張り紙を見ると、ヘンデルのブーレとありました。
ヘンデルのブーレ、って何? と思いましたが、どうもチェロを勉強している人にはこれで通るようです。ヘンデルは全く無知なので間違っていたらゴメンナサイですが、どうも作品1のソナタ集(ソロ楽器は何でもよい曲集ですが、普通はフルート)の第5番、その第3楽章にあるブーレみたい。もちろんクラヴィアが伴奏するのがオリジナルですが、無伴奏チェロでも問題ない楽譜だと思います。
ということでメインの第3交響曲。プログラムの曲解(広瀬大介氏)にもありましたが、本作は様々な未完作品でも、未完の度合いが最も大きかった作品。マーラーの第10と立場は似ていると書かれていましたが、それ以上に交響曲として完成させるのは困難だったと思います。
1936年ロンドン生まれのペイン自身も作曲家ですが、20世紀初頭の後期ロマン主義に共感してこの道に入った人、戦後の前衛音楽には全く馴染めず、自身の作品が書けずに悩んでいた保守派。それでも1972年の「フェニックス・ミサ」で漸く自身のスタイルを確立、今日に至っているという資質の人でもあります。
この交響曲、最終的にはBBCがエルガーに委嘱しましたが、エルガーは断片を残しただけで死去。遺言ではスケッチを全て焼却するように、とのことでしたが、現実には127ページ分の遺稿が残ることになりました。
ペインは、BBCとは無関係に第2楽章を自身の趣味でオーケストレーション。その後エルガー家の意向やBBCの思惑などの紆余曲折があり、結局は1997年にエルガーの第3交響曲として完成、翌年には初演、スコアも出版されます。エルガーが残したオーケストレーションは冒頭のみで、むしろペイン自身の交響曲と呼ぶべきなのかも知れません。
スコアには「Edward Elgar, the sketches for Sympnony No.3, elaborated by Antony Payne」と表記されているのはそのため。elaborated とは、「苦心して創り出した」という意味です。
最初に完成した第2楽章は、3部形式のスケルツォ。最初の12小節が反復されますが、二度目の繰り返しで弱音器付のトランペットがテーマを吹くという凝った書き方になっています。
次の第3楽章は、エルガーのトレードマークでもある7度上昇で開始されます。これをヴィオラのソロが受ける。このやり取りが最後にも繰り返され、全体の枠組みとなっているのが特徴でしょう。
イングリッシュ・ホルンを使った暗い響きはワーグナーのパルジファルを想起させるもので、エルガーが第2交響曲で到達していた精神世界に近付けたものと言えましょうか。
第1楽章は典型的なソナタ形式で、冒頭のみはエルガー自身のオーケストレーションが残されています。ペインはここを忠実に残し、カンタービレの美しい第2主題を導入。この第2主題にも7度上向が含まれ、如何にもエルガー的。コーダで一発叩かれるドラが印象的で、大音量で終わるのはこの楽章だけ。
恐らくペインが最も苦労したのが終楽章でしょう。威風堂々を思わせる行進曲風な楽句を用い、第2主題の発展形としてエルガー得意の「Nobilimente」という表情記号を登場させる。ここは2本のフルートとピッコロが囃し立てるように主題を飾り、ペインがエルガーらしさを見事に作り出していることに感心させられます。
エルガーの最大特徴でもある音楽の ebb and flow (満ち干)を繰り返し、Maestoso で第1主題を fff で高らかに奏する場面が最後のクライマックス。以後音楽は次第に退いていき、最後はドラの pp が消えていくように終わります。
その5小節前、第325小節からヴァイオリンの pp で登場する上向旋律は、エルガー晩年の「子供部屋」の第1曲「オーバード」に出てくるメロディーと、第1楽章冒頭の動きを合体させたようにも聴こえます。ペインは、ここでエルガーのオリジナルを組み合わせることによって、大先輩へのオマージュとしたのではないでしょうか。
芸術劇場で聴く尾高指揮の読響、エルガーにしては鳴らし過ぎに聴こえました。オケの技術や音量には不足が無いものの、エルガー特有のメランコリーは忘れられてしまったという印象。客席の反応も今一つ納得がいかない様子で、私にはお義理の拍手と感じられてしまいました。サントリーホールの反応はどうだったのでしょうか?
もう一度、今度は別の指揮者で聴いてみたい第3交響曲です。
最近のコメント