日本フィル・第734回東京定期演奏会

正に暦通り、寒露も末候を迎える頃から急速に寒くなった首都圏、冷たい雨の中をサントリーホールで開催された日フィル東京定期に出掛けました。先週の川崎定期は未だ熱い空気が残っていたように感じましたが、10月22日はコートが欲しくなるほどの冷え込みです。
思い当たるのは、同オケ桂冠指揮者にして芸術顧問のラザレフが来日したこと。この寒さは、多分ラザレフ冬将軍が持ち込んだものに違いないぞ。外は寒かったけれど、音楽は熱かった。次のプログラム。

リムスキー=コルサコフ/「金鶏」組曲
リムスキー=コルサコフ/ピアノ協奏曲嬰ハ短調作品30
     ~休憩~
ショスタコーヴィチ/交響曲第10番ホ短調作品93
 指揮/アレクサンドル・ラザレフ
 ピアノ/福間洸太朗
 コンサートマスター/田野倉雅秋
 ソロ・チェロ/菊地知也

このプロ、確か前シーズンに予定されていたものがパンデミックで中止となり、今回復活したものだと思います。聴き物は何と言ってもメインのショスタコーヴィチで、これまで数多くショスタコーヴィチを取り上げてきたラザレフ/日フィル・コンビですが、私の記憶が正しければ、第10交響曲は初共演ではないでしょうか。
ラザレフには有名作品を敢えて避ける傾向があり、第5を例外とすれば、これまで第10番を取り上げてこなかったのも何となく理解できます。

その前にリムスキー=コルサコフの2曲。リムスキーと言えばシェヘラザードと決まったようなものですが、他ではスペイン奇想曲やロシアの復活祭序曲が取り上げられる位のもの。今定期の前半は、その意味でも貴重な体験だったと言えるでしょう。
しかしこの傾向は最近のことで、実は戦前はリムスキー=コルサコフ作品は結構頻繁に演奏されていた記録が残っています。例えば「金鶏」組曲は新響(現在のN響)定期で近衛秀麿が初めて取り上げたのを皮切りにシフェルブラット、ローゼンストックなども指揮しています。これは戦後ですが、1969年にはマタチッチも演奏していました。

ピアノ協奏曲は金鶏以上にレアな作品ですが、これも1930年にN響定期で演奏されています(日本青年館)。シフェルブラットの指揮で、ピアノはカテリナ・トドロヴィチ。恐らくこれ、日本初演じゃないでしょうか。
注目したいのは、ソロを務めたトドロヴィチ。現在のウクライナ生まれで、ロシアで勉強した後にウィーン音楽院でも学んだ方。夫が東京外国語学校のロシア語教師に赴任したことに伴って来日し、戦前かなり長期に亘って日本で活動されたピアニストです。教師としてもクロイツァー豊子、井上園子を育てましたが、井上園子のロシア音楽演奏は定評があったと聞いています。現在では滅多に演奏されなくなったリムスキー=コルサコフの作品ですが、日本ではかなり以前から親しまれてきたこと、戦前の日本楽壇に思いを馳せながら楽しむのも一興と考えた次第です。

横浜定期でも紹介しましたが、指揮台の周りを大きく空け、オーケストラは目一杯舞台奥に配置されています。真っ先にラザレフ御大が登場し、これに続いて楽員たちが入場してくるのも同じ。退場時も指揮者が一番最後から。
川崎カルッツの時は知りませんでしたが、今回のラザレフはバブル方式での来日の由。何でも先のオリンピックの際に導入された方式で、待期期間が短縮される代わりに人との接触がより厳しく制限され、距離を取って行動することが求められるのだそうです。従来のように楽員の近くを通って入場する事が出来ないため、指揮者が最初に広い空間に入る。肘タッチも拳タッチも禁止。N響に登場したパーヴォ・ヤルヴィもそうでしたし、聞いたところでは目下来日中のブロムシュテット翁も同じ扱いとのこと。ルールとあれば致し方ないけれど、チョッと首を傾げたくなる光景でもありました。

オーケストラの並び、特に弦楽器は指揮台を遠くから囲むように配置され、ファースト二人、ヴィオラ二人が最前列なのは同じですが、何とセカンドは四人、チェロも四人が一列に並びます。まるでイラストで見た19世紀のオーケストラの配置みたい。却って帝政ロシア時代のオケの響きを連想させるようで、これは寧ろ面白く聴くことが出来ました。

最初に演奏された金鶏は、15曲あるリムスキー=コルサコフの歌劇では最後に書かれ、歌劇の上演も比較的多いもの。私もテレビでですが、オペラ全曲を見た記憶があります。危急の時に鳴く金鶏が王を殺すという、やや政治的な内容を含むオペラで、作曲者生前には上演を認められなかったという問題作。演出によっては現代でも風刺的に扱われても不思議じゃないでしょう。
4曲から成る組曲は、リムスキー=コルサコフ自身の編曲ではなく、後に弟子たちが編纂したもの。レコードでは人気作で、私も様々な演奏で楽しんできました。マタチッチN響は東京を離れた直後だったので、ナマでは初体験かも。

第1曲「宮廷のドドン王」の冒頭、2本の弱音器付きトランペットが奏でるファンファーレから惹き込まれ、第2曲「ドドン王の遠征」の最後では、舞台下手端に置かれたチェレスタが夢のような音色を奏でます。
第3曲「シェマハの女王の客人としてのドドン王」は、安達真理とデイヴィッド・メイソンとのツートップが率いる充実著しいヴィオラの聴かせ所。終了後、ラザレフもヴィオラ・チームを立たせて褒め称えていました。
私の聴き損ねかもしれませんが、何故か本来は登場するはずのティンパニを欠いていたようでしたが、どうだったのでしょう。舞台上が奥までギッシリと密状態だったのでよく見えませんでした。

2曲目のピアノ協奏曲への舞台転換がまた大変。ほとんどの楽員は舞台裏に降り、ラザレフだけが配置転換を見守ります。スタインウェイが曳き出され、弦楽器は左右に分割され、ラザレフの正面が木管チームという珍しい配置。これは作品の性格というより、ソーシャル・ディスタンスへの配慮なんでしょう。

ピアノ協奏曲に付いては、今回のソリスト福間洸太朗自らが弾きながら解説するユーチューブが大いに参考になります。寧ろプログラム・ノート(山野雄大氏)より情報量が豊富なくらい。今日の二日目を聴かれる方は、是非チェックしておかれることをお勧めしておきましょう。
バラキレフが編纂したロシア民謡「軍隊の採用」から取ったテーマと、パガニーニの24のカプリスの有名なテーマに良く似たモチーフの二つが様々に繰り返されていく単一楽章・15分ほどの協奏曲。大きくモデラート、アンダンテ・マエストーソ、アレグロの3部から成り、モデラートの最後とアレグロに短いカデンツァが置かれています。

プログラムにも書かれ、福間ユーチューブでも解説されているように、モデルになったのはリストのピアノ協奏曲第2番。福間によれば、構造はシューベルトの「さすらい人幻想曲」に似ているとも。
フランツ・リストは1842年から43年にかけてロシアを訪れ、グリンカを初めとしてロシアの音楽家たちに大きな影響を与えました。特に1877年に会ったリムスキー=コルサコフの才能を認め、リムスキーも1879年にリスト作品を指揮しているほど。
ピアノ協奏曲は1882年から1883年の作曲ですが、出版はリストが亡くなった1886年のこと。ベリャエフから出版されたスコアには、フランソワ・リストの思い出に捧ぐ、と大書されています。

自らオーケストラ・パートも弾いて動画を作った福間の弾く協奏曲。強靭なタッチと陰影豊かな表現で、見事にこの傑作を蘇らせてくれました。こんな素敵なコンチェルト、何故今まで誰も弾いてこなかったんだろうか、誰しもがそう思ったと確信します。
絶賛の拍手を浴びせるラザレフ将軍にも応え、アンコールは当然ながらリストの「愛の夢」第3番変イ長調。偶然の悪戯でしょうか、10月22日はリストの210回目の誕生日でもありました。

そして後半、愈々ショスタコーヴィチの交響曲第10番。冒頭で紹介したように、このコンビでは初の第10、待ちに待った第10でもあります。
その期待、予想通りというか、それ以上でしたね。特にヴィオラはラザレフ着任当時とは比較にならないほど充実し、分厚い音楽を響かせます。第1楽章からエネルギー全開で、第2楽章の激しいアレグロでは、客席を向きながら楽章を終えたラザレフが激しく息を吐く場面も。
第3楽章で、心を寄せていたエリミーナのテーマに絡むレ・ミ・ド・シ。このショスタコーヴィチ音型がまるでお祭り騒ぎになる壮大なフィナーレ。1時間弱を要する大曲ですが、あっという間。またしてもラザレフ・マジックに酔い痴れました。

通常より2割は盛り沢山な定期でしたが、満足度は200%、かな。去年10月に飯守マエストロとブラームス第1協奏曲でも共演したばかりの福間洸太朗、来年7月にも横浜定期出演が決まっています。
ラザレフは来年6月、東京と横浜。横浜で予定されていたショスタコーヴィチ第7は現状からみて大編成は無理と判断、第5に変更されましたが、引き続きロシアの名曲、知られざる佳曲を紹介してくれることになっています。東京と横浜、どちらも目が離せません。

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