ウォーターフロントの「トゥーランドット」

花冷えを通り越したほどの寒さの中、横浜・山下公園に面した神奈川県民ホールでプッチーニの歌劇「トゥーランドット」を見てきました。二日間公演の初日、この日のキャストは以下のものです。
トゥーランドット姫/横山恵子
カラフ/水口聡
リュー/木下美穂子
ティムール/志村文彦
アルトゥム皇帝/近藤政伸
ピン/晴雅彦
パン/大野光彦
ポン/大槻孝志
役人/与那城敬
合唱/びわ湖ホール声楽アンサンブル、二期会合唱団
児童合唱/赤い靴ジュニアコーラス
管弦楽/神奈川フィルハーモニー管弦楽団
指揮/沼尻竜典
演出/粟國淳
装置/横田あつみ
その他
神奈川県民ホールは滋賀県のびわ湖ホールと共同制作によるオペラ公演を3年計画で取り組んでいますが、今年はその2年目。トゥーランドットが今回の演目です。(来年はラ・ボエームの予定)
去年は沼尻得意のドイツ近代物「バラの騎士」でしたから、意表を衝いた選曲とも言えるでしょう。
実は前日のゲネプロも見たのですが、まず大書すべきは演出の面白さでしょうか。びわ湖の公演に関する評価は賛否が割れているようですが、私は好き嫌いを別にして、大いに評価すべしという意見です。
何の解説も無くゲネプロで接した時には違和感を覚えたのは事実です。しかし気に入らないからと言って否定的に考えるべきではありますまい。
粟國演出の核になったのは、恐らく第3幕のトゥーランドットとリューのやり取りにあるでしょう。
“Chi pose tanta forza nel tuo cuore?”(何故あなたは強くなれるの)、とトゥーランドットがリューに問いかけます。それに対しリューは、
“Principessa, l’amore!”(姫、それは愛です)と答え、更に“Tanto amore, segreto”と念を押すのです。
この segreto には隠された、即ちリューのカラフに対する秘められた恋という他に、「心の奥底」という意味もありますよね。
個人が特定の人に寄せる「愛」に留まらず、人間が生まれたときから持っている本質的な愛。
この「愛」が失われた世界こそ、粟國が描いた機械に頼って生きている世界ですね。機械に支配された世界。
粟國はこのアイディアを映画「メトロポリス」(1926年、フリッツ・ラング監督)から得た由。正にトゥーランドットと同時代の映画作品です。
ここを理解しないと、今回の「トゥーランドット」は、ナンじゃこれ! ということになってしまいます。
Amore を知らないトゥーランドット姫とカラフ、リューだけが持っている「愛」こそが主題なのです。
当然ながらオペラの「主役」はリューであり、その意味で、今回の(神奈川・初日の)プロダクションは成功だったと思います。
リューの第1幕のアリアにしても、第3幕のアリアにしても、この箇所だけは舞台上の「動き」を止め、静止画像として「愛」を強調する。木下もこれに相応しく、舞台も客席も息を呑む名唱で応える。
リューが台本にある自殺ではなく、役人(機械の象徴)に殺されるのも意味あること。
粟國は自殺=現実逃避と考え、リューは自殺ではなく積極的に死に立ち向かうという設定なのでしょう。
リューの最後のアリアはプッチーニの絶筆。これが蝶々夫人の「ある晴れた日に」と同じ♭6つの調で書かれていることも、今回の公演で気がついたことの一つ。ここでプッチーニの筆が止まってしまったことは、やはり歴史の必然なのかも知れません。
アルファーノ版のフィナーレの扱いは、音楽的にも演出的にも極めて難しい場面ですが、比較的上手く扱っていたと思います。
紗幕を下ろしてトゥーランドットとカラフの二重唱を暗い舞台にし、大団円で元に戻す。
(最後まで舞台左右に機械が据えられていたのは、それでも「愛」を取り戻せないということの暗示なのでしょうか。今一つ理解に苦しむ点ではありました)
ま、オペラですからいろいろありますし、私の感想もこれだけではありません。それを書き出すと限が無いのでこの辺にしますが、新しい才能をどんどん活用し、ヴェテランを要所に押さえ、キャストも従来の垣根を越え、継続的に経験の場を創造していく沼尻の努力こそ賞賛されるべきだということを忘れてはならないと思います。

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