強者弱者(9)

低気圧

 低気圧を戒むる声、新聞紙上に喧し。低気圧は多く南洋諸島に起り台湾、九州を経て本土を襲ひ、或は日本海に出で、或は三陸より再び太平洋に去る。此頃東海道に雨多く汽車の往来を絶ち、電話の交通を遮ること毎年其例なり。野分やみて市内出水の報頻々たり。下谷藍染川のほとり、大塚川の流域にかゝる小石川の町々、麻布の古川べりなど、毎年浸水家屋おびただし。本所梅森町、亀戸天神の辺、秋霖頻りにして泥濘行く可からず。殆ど交通断絶の姿なり。晴るれば日清紡績のけむりに襲はれ、降れば泥濘に途をたゝると之を旗亭生稲の女中に聞きぬ。

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ここで言う低気圧は、現在の台風のことでしょう。丁度台風が通過したばかりで、今頃が100年前も現在も台風の季節であることに違いはないようです。

「野分」は「のわけ」とルビが振られていますが、「のわき」でも良く、台風のことですね。

当時の出水箇所として下谷藍染川、小石川の大塚川、麻布の古川が挙がっていますが、私が知っているのは古川だけです。

下谷の藍染川は、下谷というより根津界隈を流れて不忍池に注ぎ込む川だったそうです。下谷を流れていたのは寧ろ忍川という名前だった由。

大塚川というのは良く判りませんが、現在の小石川近くを流れているのは神田川。小石川の西北西が大塚ですから、現在の江戸川橋から飯田橋辺りを大塚川と称していたのかも知れません。

ここに書かれた情景は、恐らく明治43年の大洪水を描いたものだと思われます。この年か翌年かは、文章だけからでは断定できません。

100年前は本所、亀戸に近く日清紡績の工場があり、このときの大水害でも大きな被害が出た記録があります。
ネットで検索していて、こんなサイトを見つけました。

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/card/10_image_thum.html

「秋霖」(しゅうりん)とは秋雨のこと。現在の秋雨前線という用語は、明治時代には秋霖前線と呼んでいたようですね。

最後に出てくる旗亭生稲について。「旗亭」(きてい)は料理屋のことで、中国では旗を立てるのが目印だったからです。現在なら料亭の方が通りがよいでしょう。
「生稲」(いくいね)は、当時浜町河岸にあった有名な旗亭のようで、現在は半蔵門で営業している「稲ぎく」(いなぎく)の前身ではないかと思われます。

秀湖は本所の水害の噂を生稲で女中から聞いた、ということでしょうが、こんな高級料亭に出入りしていたとは隅に置けぬ感じがします。

 

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