強者弱者(17)

結婚式

 ダリヤ萎みて又見る可からず。コスモス漸く末。秋海棠の花斂まりて、多角形の実固し。山茶花ひとり妍を垣の外にほこる。
 野にありては尾花漸く穂に出でたり。藤袴の花末。野路菊満開。龍膽は莟多し。競馬の季節なり。馬券禁止以来、池上も、目黒も、板橋も構内徒に雑草の茂るに任せて、衣香傘影また見る可くもあらず。
 季漸く深からんとして、待ちわびたる結婚式を挙ぐるもの多し。菊は東籬の露に匂ひ、酒は夜光の盃に溢る。夜更け人定まり、秋冷銀燭に沁み入りて、主によく又客によし。公設美術展覧会の審査毎年此頃に至りて終了す。受賞者の得意想ふ可し。

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目黒競馬場は有名ですが、池上や板橋にも競馬場があったというのは、この文章で初めて知りました。

池上競馬場が出来たのは明治39年(1906年)でしたが、2年後の明治41年に競馬法が施行されて馬券の発売が禁止されます。
当時は池上(東京競馬会)、川崎(京浜競馬倶楽部)、目黒(日本競馬会)、板橋(東京ジョッキー倶楽部)が夫々競馬を行っていましたが、明治43年(1910年)に四場が統合され、現在の中央競馬となって競馬場も目黒に統一されます。これに伴って池上も板橋も閉鎖、わずか5年の短命に終わったのでした。

因みに、日本最初の公設馬券販売は池上競馬場だったようです。

この他、上野や三田にも競馬場があったようですが、どれも本来は軍馬の改良が目的。日露戦争で敵のコザック兵の優れた騎馬軍に悩まされたのが原因です。
明治期の競馬場については、下記サイトをご覧ください。↓

http://www.geocities.jp/kikuuj/keiba/meguro/meguro.htm

「衣香」(いこう)は衣服にたきしめた香のこと。「傘影」(さんえい)は文字通り傘の影でしょう。これが何故競馬と繋がるかは不明です。書いた本人に問い詰めたいところですが、50年以上前に亡くなっていますから想像するしかありませんな。

恐らく、競馬場には馬独特の匂いがありますから、それを避けるのと競馬場に行ったことが判らないように香を焚いたのかも知れません。
更に、当時の競馬場は雨も日差しも避ける設備が無かったでしょう。観戦には降れば雨傘、照れば日傘が必要だった、とでも解釈しておきましょうか。

いずれにしても、各競馬場は閑古鳥が鳴いて、往時の賑わいはスッカリ失せてしまった、ということでしょう。

「東籬」(とうり)は東の垣根。なかなか難しい文章です。

 

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