強者弱者(72)

試験前

 試験前にて男女ともに学生の顔色蒼し。本郷、牛込、小石川など場末の寂しき通路をゆく青年、甲武、山手の車窓によれる少女、多くはノートを繰りひろげて一向に読み耽る。此頃歩を郊外に運ぶ人、たまたま緩らかなる岡の裾、小笹の細道など日あたりよき所、樹に凴り、草を藉きてノートの暗誦に余念なき学生を見て今更に学生時代の思ひで多かりぬ可し。
 若き人の愁多き時なり。卒業近き少女は眼前に横はれる試験の苦痛と共に必ず一度は身の結婚問題に想ひ至りて何くれと悩み惑ふ時なり。卒業近き青年は之も眼前に迫れる試験の準備未だ全からざるに、卒業後の就職問題に想ひ到りて、深き憂鬱に囚はるゝ時なり。若き男女の夢のようなる恋が、始めて実世間てふ無情の手にかかりて引き裂かるゝ時なり。

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「一向」は「ひたすら」。「只管」や「頓」と同じです。

「凴り」はパソコンによっては表示されないかもしれません。「より」と読みます。もたれる、よりかかること。

「籍く」は、「しく」。草を物の下にしく、という意味です。

「実世間てふ無情の手」という表現がありますが、ここに使われている「てふ」とは、「という」の古語です。「チョオ」と発音しますね。
伊勢物語に “世の憂きことぞ、よそになるてふ” という文章がありますが、これは “世間の嫌なことから離れるという” てふ訳になっています。なぁ~んちゃって。

この言い方が明治末年でも使われていたことに注目でしょう。

 

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