復刻版・読響聴きどころ(18)
2007年9月、スクロヴァチェフスキ・プログラムの二つ目です。
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9月の名曲シリーズはサントリーホールに戻ります。ただし池袋でも同じプログラムが、東京芸術劇場名曲シリーズでも取り上げられますね。
曲目は二つ、シューマンの第4交響曲とショスタコーヴィチの第10交響曲です。
この2曲に共通点はあるのでしょうか。いろいろ考えていて思い当たったんですが、それは最後に。ということでシューマン。
日本初演はこれだそうです。
1929年10月6日 日本青年館 コンスタンティン・シャピロ指揮新交響楽団。現N響の第54回定期演奏会です。
オーケストレーションは、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、ホルン4、トランペット2、トロンボーン3、ティンパニと弦5部です。
シューマンの第4交響曲は、実質第2交響曲に当たります。1841年に作曲されたときには「交響的幻想曲」Symphonic Fantasy というタイトルでした。初演の評判が今一つだったので10年後の1851年に改定、交響曲第4番として初演されたのが現在の形ですね。この曲の聴きどころは、この経緯にもある、というのが私の意見です。
形は交響曲でも、古典派のものとは随分違います。第1楽章などソナタ形式とは言いながら第2主題がハッキリしませんし、再現部もないですね。展開部が長く、そのままコーダに入ってしまいます。
前にメンデルスゾーンの第3を取り上げた時に、全体を通して演奏する交響曲のことを紹介しましたが、シューマンの第4もその典型的な例です。四つの楽章が切れ目なく演奏されます。
第1楽章には序奏がありますが、このメロディーが交響曲全体の核になっています。第2楽章ロマンツェではオーボエとチェロがテーマを歌った後、序奏主題がそのまんま出てきますね。第3楽章スケルツォの主題も、序奏のメロディーを上下反転した構造です。この楽章のトリオ部は、明らかに第2楽章の気分を反映させています。
第4楽章も実は第1楽章とソックリで、再現部らしいものはありませんし、弦の速いパッセージは第1楽章と同じもの。両楽章とも展開部がトロンボーン+弦楽合奏の和音で始まるところも同じです。(第1楽章ではホルン、第4楽章ではファゴットが重ねられます)
実はこれこそが、シューマンが最初に意図した「交響的幻想曲」の本質なのではないでしょうか。この形式が初演のときに聴衆によく理解されず、評判が芳しくなかったのだと思います。
敏感なブラームスはむしろ1841年版の方が気に入って、再演や出版に熱心でした。これが基で改訂版支持のクララ・シューマンと気まずくなったほどですね。
もう一つ、純粋器楽の交響曲とは言いながら、極めて個性的、個人的な感情や感性を持ち込んでいると思えること。これこそがロマン派の特徴でしょう。
第2楽章と第3楽章は、似た素材を使いながら、極めて対称的な音楽です。単にロマンツェとスケルツォという形式に留まらず、夫々がクララとロベルト、シューマン夫妻の自画像になっているような気がするのですね。それが極めてシンフォニックでありながら、独特なスタイルで貫かれた両端楽章で挟まれている。
私はシューマンの第4交響曲が大好きで、他にもいろいろ着目点があるのですが、取り敢えずここで切り上げます。
続いてショスタコーヴィチの第10交響曲。
日本初演は、
1954年11月11日 日比谷公会堂 上田仁指揮東京交響楽団 東響の第65回定期演奏会です。ムラヴィンスキーによる世界初演が1953年12月17日、アメリカ初演(ミトロプーロス指揮ニューヨーク・フィル)は1954年10月14日です。いかに日本の反応が早かったか、というところに注目したいですね。
オーケストラの編成は、
フルート3(3番奏者第1ピッコロ持替、2番奏者は第2ピッコロ持替)、オーボエ3(3番奏者はイングリッシュホルン持替)、クラリネット3(3番奏者Esクラリネット持替)、ファゴット3(3番奏者コントラファゴット持替)、ホルン4、トランペット3、トロンボーン3、チューバ、ティンパニ、打楽器4人、弦5部。打楽器は、小太鼓、タムタム、トライアングル、タンバリン、シロフォン、シンバル、大太鼓です。
基本データを紹介したところで一休み。聴きどころは別途書き込みます。
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聴きどころですが、第10交響曲はショスタコーヴィチの作品の中でも極めて自伝的な要素の強い交響曲、ということになるかと思います。弦楽四重奏曲で言えば、第8番と比べられるでしょうか。
オーソドックスな4楽章で出来ていますが、楽章の長さがかなりアンバランスですね。第1楽章がやたらに長い。22分から23分ほどもかかります。第2楽章は僅かに4分で、後の二つの楽章はどちらも12~13分です。ということは第1楽章が全体の4割以上を占めることになります。
極めて自伝的、と言いましたが、この曲にはショスタコーヴィチの名前が音名象徴として織り込まれている、という解説を読まれたことがあるでしょう。
ディミトリ・ショスタコーヴィチをドイツ語風に綴ると、D.SCHostakovich。最初の4つを音名に当て嵌めると、レ-ミ♭-ド-シ となります。このレミドシがあちこちに出てくるのですね。
第1楽章の頭、チェロとコントラバスが上向モチーフを弾きますが、重なって次に入ってくるヴァイオリンは“レ-ミ”。つまり暗示なのです。やや進んで、練習番号28の9~13小節に出るヴァイオリンは“レ-ド-シ-ミ”、これは入れ替えですね。
そして遂に第3楽章。打楽器のワルツ風リズムに乗ってピッコロ・フルート・オーボエが堂々と“レミドシ”を謳い上げます(練習番号104の5・6小節)。これを皮切りに第4楽章まで、何度も何度もショスタコーヴィチの自己主張が出てきます。
第3楽章が更に面白いのは、途中にホルン1番が高々とソロを吹く所。ここは直ぐ判るでしょう。音名で言うと E-La-Mi-Re-A となります。実はこれ、当時ショスタコーヴィチが想いを寄せていた女性、エルミーラ・ナディーロヴァのモノグラムなんですね。ELMIRAを音名で表しています。
このモチーフ、よく聴くとある曲を連想します。そう、マーラーの大地の歌の冒頭、ホルンの決然とした信号音です。
ここでショスタコーヴィチはマーラーをも意識したと言われています。
レミドシとエルミラは交互に繰り返されますが、次第に間隔が詰まっていくところも暗示的。最後はフルートとピッコロが“レ・・ミ・・ド・・シ”と囁くところは思わず笑ってしまいます。
第4楽章もレミドシのオンパレード、最後などティンパニがこの四つの音を狂ったように叩き続けて勝ち誇ります。
皆さんもレミドシを探しながら聴いてみてください。
シューマンの第4とショスタコーヴィチの第10は、ともに作曲家の自画像と聴いて聴けなくもない、というところが共通しているように思います。もちろんシューマンもショスタコーヴィチも作品についてそんな告白はしていませんし、どちらも純粋器楽として楽しむのが筋でしょう。抽象的な音で構築した芸術です。
しかし作品に馴染むには、そういうストーリーを想像しながら味わっていくのも近道じゃないでしょうか。
スクロヴァチェフスキ、流石に暗示的なプログラムを組みます。どっぷりとマエストロの秘儀を楽しみましょう。
そう言えばシューマンとショスタコーヴィチ、二人とも綴りの最初はSCHですな。なぁ~んちゃって。
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