東フィル・第796回サントリー定期演奏会
今年最初のサントリーホール、一回券で聴く東京フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会です。
当初は同オケの桂冠指揮者である大野和士が振る予定のコンサートでしたが、氏が体調不良とのことで急遽指揮者が変更されました。
大野は新国立劇場で「トリスタンとイゾルデ」を振って年越しをしていたのですが、持病の頸椎が悪化、ドクターストップがかかって止むを得ず降板になった由。
大野の交代は確か以前にもあったと記憶しますが、その時も頸椎。指揮者はいわば空振りを繰り返しているような職業ですから、頸椎や腰に問題を抱えている人が多いのです。
特に新国立劇場はピットと舞台の高低差が大きく、指揮者にとっては大いに負担がかかるという話、当の尾高忠明氏から直接聞いたことがあります。指揮者にとって鬼門の新国立、大野はその犠牲者と言えるのかも知れません。
(高関さん、広上さん、どうか無理しないで下さいね)
今回ピンチヒッターを引き受けたのは、東フィルでは「指揮者」の肩書を持つ渡邊一正。東フィルとは縁の深いマエストロで、大野からは「20年来の盟友」と信頼されている指揮者です。
ところで東フィルには様々な肩書があって、常任指揮者、桂冠名誉指揮者、名誉指揮者、桂冠指揮者、専任指揮者、指揮者、首席客演指揮者、永久名誉指揮者と何と8種類。複数擁するポストもあって、実に11人の名前が挙がっています。
良く判らないのは渡邊が持つ「指揮者」という肩書で、今回のような突発事故に備えているのか、と勘繰ってしまいました。ま、いずれにせよ、大野の渾身のプログラムを直前に引き継ぐには相当な負担もあったことでしょう。プログラムが変更されなかったことに大いに敬意を払いたいと思います。
さて、そのプログラム。
望月京/むすび(東フィル100周年記念委嘱作品)
ショスタコーヴィチ/交響曲第6番
~休憩~
プロコフィエフ/交響曲第5番
指揮/渡邊一正
コンサートマスター/荒井英治
私がこの回を特別に聴きたかったのは、冒頭の望月作品。彼女の瑞々しい感性に溢れた作品を体験することは、私にとっては逃すことのできないチャンスなのです。
多くの聴衆の期待は指揮者・大野に存したと想像しますが、私は望月の新作にこそあり。指揮者の交代は些かの影響もありません。
そして実際、実に面白い音楽を聴かせてもらいました。
抑々これは、大野自身からリクエストされた内容に沿って作曲されたもの。
プログラム・ノートにもあったように、今年は東フィルの創立100年。その年頭の定期で祝意を籠め、『寿ぎの歌』のような作品を演奏したいというのが大野の希望でした。
その意図を受けた新作は、冒頭に「双調(そうじょう)の調子」が木管で奏でられ、祝儀舞である「寿獅子」の引用などを鏤めながらオーケストラのエネルギーを生み出していくもの。
私は「双調の調子」も「寿獅子」も耳に馴染が無いので具体的に何処かは判りませんが、望月のアイデンティティでもある日本的な感性には直ぐに馴染んでいきました。
彼女の作品の魅力の一つは、音楽の様々な局面が多層的に展開して行くこと。この祝賀作品においても、上記の倭の響が7拍子を主体にする音楽に変貌し、更には多様な打楽器と管楽器のアンサンブルに移行。聴き手を飽きさせることがありません。
(ティンパニの他に使われた打楽器は、大太鼓、小太鼓、トムトム、コンガ、ボンゴ、タンブリン、シズル・シンバル、ハイハット・シンバル、カウベル、アゴゴ・ベル、木魚)
今回は彼女の諸作の中では各楽器本来の奏法をオーソドックスに用いたものと感じましたが、作品の趣旨からかユーモラスな表情も醸し出され、その究極は作品の終わらせ方にあったと思いました。
(弦楽器もいつもユニゾンというわけでもなく、パートによって演奏したりしない人がアット・ランダムに指定されているよう)
譜面を見ていないのでこれ以上の言及は出来ませんが、次回は是非大野和士の棒で聴いてみたい一品です。
続くロシアの交響曲も、プログラムを選択した大野のメッセージが籠められたもの。特に最後のプロコフィエフは、対独戦争の勝利を祝し、祝砲が鳴った後に初演が始まった作品です。
またショスタコーヴィチは、東フィルが日本初演(1969年1月27日、外山雄三指揮)したシンフォニー。
創立100周年の劈頭を飾るに相応しいプログラムと言えるでしょう。
東フィルも力演。特にショスタコーヴィチ冒頭の、明るく艶がある音色と、良く歌うフレージングは東フィルが長年培ってきたオケ独特の感性でしょう。如何にも“東フィルを聴いているゾ” という安心感に満ちていました。
ただ残念ながら、当夜の演奏はそれ以上の踏み込みが不足していたように感じられました。何処がどう、と言うのではなく、音楽の変り目が曖昧になってしまう。この辺りが指揮者の限界なのでしょうか。良い試合をしながら、最後の詰めを欠いて勝ちを逃したような印象、とでも言ったらよいか。
さて再三書いてきましたが、東フィルは今年創立100年。もちろん最初から東京フィルハーモニー交響楽団だったわけではなく、名古屋で産声をあげた「いとう呉服店少年音楽隊」(現在の松坂屋)が前身。その結成が1911年(明治44年)だったのですね。
その後の経緯等はプログラム誌に解説がありましたが、東フィルは100年を記念し、この4月から始まる新シーズンを「日本の力」と題した1年に託しています。“次の100年に向けて、世界を駆ける日本の力”と。
快挙じゃありませんか。これからのクラシック音楽界は日本人が引っ張る、というのは、常日頃から私が主張していることでもあり、これを積極的に支援して行くのは日本の聴衆の義務でもありましょう。
具体的には3つある定期シリーズの全てに日本人指揮者が登場し、ソリストもヴェテランから若手まで日本の総力を結集する。
更に嬉しいのは、我が国の誇りでもある「日本人作品」が積極的に取り上げられること。
(唯一例外となる首席指揮者・エッティンガーに託されたのは、東フィルの恩師でもあるグルリットの歌劇作品からの抜粋!)
繰り返しますが、クラシック音楽の起源は西洋ではなく、東洋です。800年間隔で振り子のように移行する文化・文明の覇権は、21世紀からは東洋に軸足を移すのが人類の定め。
最早クラシック音楽は東洋、特に日本が主導権を握っていると考えても良いのじゃないでしょうか。
現在発表されている東フィルの新シーズン。ほぼ重要な人材は網羅されています。ということで、私も遅まきながら定期の一つに通おう、と考えている次第。
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