英国競馬1961(1)

一昨年から始めた50年前のイギリス競馬回顧、今年も数回に分け、ブログのタイトルに倣ってクラシック・レースを振り返って行きましょう。第1回は2000ギニー。

前年の2歳戦線にはこれと言った中心的存在は無く、特に牡馬は不作の感がありました。実際、例年発表される2歳のフリーハンデで上位12頭にランクされた馬のうち、何と7頭が牝馬という有様。
しかもレーティングのトップは、前年秋にチーヴリー・パーク・ステークスに勝ったフランスの牝馬オパリーヌ Opaline Ⅱ でした。

牡馬の最高位、全体の第2位に評価されたタイフーン Typhoon についても評価はマチマチ。そもそも同馬はアイルランドで調教されていた馬で、英国の牡馬という観点から見れば、1961年のクラシック戦線は正に中心馬不在、何が勝ってもおかしくないという状況だったと言わざるを得ません。

そんな中で本番を迎えた2000ギニーで1番人気(7対4)に支持されたのは、3歳デビュー戦のウッド・ディットン・ステークスを勝ったばかりのピントゥリスキオ Pinturischio でした。
血統の良さと名門ノエル・マーレス厩舎の期待馬。しかも調教では同厩馬を蹴散らすほどの迫力から、まだ見ぬピントゥリスキオを「スーパースター」と囃し立てる新聞もあったほど。トライアルの一つであるクレイヴァン・ステークスを、調教では問題にされなかった同厩のオーレリアス Aurelius が圧勝したことも、評判を一層高める材料になっていたのかも知れません。

続く2番人気は、前述のように2歳牡馬としては最も高い評価を得ていたタイフーン。この馬は1マイルの距離への適性と冬場の成長が課題でしたが、アイルランドでの2戦はパッとしないもの。それでも2番人気に支持されていたのは、他に有力馬が見当たらなかった故でもありましょう。

さてレース。
いつものようにゴールは内と外に大きく離れ、スタンドから遠い内ラチ沿いを先頭でゴールインしたのはロッカヴォン Rockavon という馬。オッズは何と66対1で、2000ギニー史上でも稀に見る大波乱となってしまいました。
2着以下は大接戦でしたが、勝馬から2馬身差で同じく内ラチを走ったプリンス・チューダー Prince Tudor が2着に入り、3着にタイム・グレーン Time Greine 、ピントゥリスキオ4着、5着はバリー・ヴィミー Bally Vimy という結果。

優勝したロッカヴォンは、スコットランドのダンバーをベースにするジョージ・ボイド師が管理する馬で、スコットランド調教馬が2000ギニーを制したのは、これが史上初。騎乗したノーマン・スターク騎手は、スター騎手からは程遠い地味な存在でした。

肝心のボイド調教師はグラスゴウ空港が農霧のため足止めを食い、同馬のクラシック制覇に立ち会えなかったというアクシデントも記録されています。これがボイド師にとって生涯唯一のクラシック勝利となったのですから、何とも皮肉なことでした。

高配当が示すように、ロッカヴォンはパドックでも全く目立たない存在で、某大牧場のマネージャーは、“スコットランドからこんな馬を連れてくるなんて、何たる時間とお金の浪費だろう” とコメントしていたほど。そんな馬に勝たれたんですから、競馬界は大変なショックを受けたものです。

ロッカヴォンを生産したのはノーザンプトンシャーのシートン・ゴードン夫人(ビドルスデン・パーク・スタッド)。当歳のときに420ギニーでダンワース氏に買われ、9ヶ月後には2300ギニーで転売され、スコットランドの酪農家T.C.ユイル氏の所有になります。2000ギニーの勝利馬主になったのは、このユイル氏。

2歳の時には小レースに8戦して3勝(ハミルトン競馬場で2勝、ストックトン競馬場で1勝)。能力は出し切りましたが、フリーハンデを与えられような成績ではありませんでした。

3歳初戦は、ニューカッスル競馬場のノーザン・フリー・ハンデキャップで4着。このあと2000ギニーに挑戦したのですが、誰がクラシックに勝つことを予言出来たでしょうか。

2000ギニーの歴史を紐解けば、1961年以前にも大穴で勝った馬が見つかります。1901年の勝馬ハンディキャッパー Handicapper は33対1でしたし、1956年にはジル・ド・レ Gilles de Retz が50対1で観衆をアッと言わせました。
しかし彼らの2歳時の成績を見ると、ハンディキャッパーはグッドウッド競馬場のリッチモンド・ステークスに勝っていましたし、ジル・ド・レも現在パターン・レースに格付けされいないレースとは言えアスコット競馬場で勝利した馬なのですね。

これだけで判断しても、ロッカヴォンが如何に意外な勝馬であったことが知れるでしょう。

突然のようにクラシック馬となったロッカヴォンが登録していたのはハンデキャップ戦のみ、当然ながらダービーの出走権は無く、次走は6月22日のニューカッスル競馬場でのヘッドン・ステークス(1マイル)という小レースまで待たなければなりませんでした。

しかしこれは「レース」と呼べるようなものではなく、他の出走馬は1頭だけ。馬券の対象にもならないレースでしたが、ここは格下相手に楽勝。

続いて臨んだキング・ジョージ6世クィーン・エリザベス・ステークスは3着。キング・ジョージ3着と言えば聞こえは良いのですが、出走馬はたった4頭で、レースはライト・ロイヤル Right Royal とセント・パディ St. Paddy の一騎打ちだけが興味だった内容。残る1頭の癖馬アポッスル Apostle は最初から走るムードではなかった一戦でした。

その後エア競馬場のドゥーンサイド・カップ(11ハロン)に出走して1番人気に支持されましたが、期待に応えられず4着敗退。
続くニューマーケットのエクリプス・ステークスは8頭立ての6着に終わり、結局14戦5勝のまま3歳で引退します。

ロッカヴォンは種牡馬としては完全な失敗。1970年にはフランスに輸出されてしまいました。

ところで、ロッカヴォンは父ロックフェラ Rockefella にとって初のクラシック馬となります。
ロッカヴォンが産まれた時、父の年齢は17歳。母コスメティック Cosmetic もまた18歳の高齢であったことも話題になりました。
この当時、高齢馬の産駒はクラシックに勝てないというジンクスがありましたが、ロッカヴォンはこれを見事に覆した馬でもあります。この妙な理論、現在では確率の問題として話題にもなっていませんね。

Pocket
LINEで送る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください