日本フィル・第648回東京定期演奏会

2月の九州公演を聴いた後、ほぼ一月振りにサントリーホールで日本フィルを聴いてきました。同団としては2012-13シーズン後半のスタートでもあります。
7月までの5回も興味深い演目が目白押し、特に3月と4月は首席客演指揮者インキネンによるシベリウス交響曲全曲シリーズの一環とあって、聴き逃せないコンサートが続きます。
その「ピエタリ・インキネンのシベリウス・チクルスⅠ」と銘打った昨夜のプログラムは次のもの。

シベリウス/交響曲第1番
     ~休憩~
シベリウス/交響曲第5番
 指揮/ピエタリ・インキネン
 コンサートマスター/扇谷泰朋
 フォアシュピーラー/江口有香

ところでシベリウス、というより北欧 Nordic 音楽と言えば、日本では札幌と、何故か広島がメッカの如き存在で、この3月には札幌で尾高マエストロとの交響曲チクルスがスタートしたのは単なる偶然でしょうか。
しかし忘れてならないのは、我が日本フィルが創設当初から継続されてきた貢献。創設指揮者でもある渡邉暁雄によるチクルスは勿論のこと、10数年前のネーメ・ヤルヴィとのチクルスも今や語り草になっているのは好楽家の良く知る所でしょう。
日フィル第1回定期のメインはシベリウス第2でしたし、日フィルのシベリウス演奏にはタウノ・ハンニカイネン、パーヴォ・ベルクルンド、オッコ・カムと言った巨匠たちとの共演によっても蓄積されてきた伝統があります。私は流石にハンニカイネンは噂でしか知りませんが、渡邉もヤルヴィも、ベルクルンドもカムも実際に会場で聴いてきました。

今回はフィンランドの産んだ俊英インキネンによるチクルス。オケとしての力の入れようも相当なもので、木曜日(13日)には杉並公会堂での公開リハーサルに続いて記者懇談会も催された由。当日奥田佳道氏の司会、高島まき氏の通訳によって行われた懇談会の内容が、この日に配布されたチラシにも紹介されています。
それを一読すると、話題は3回に分けた選曲をどうするか、第5交響曲ではオリジナル版と改訂版でどちらを選択するかだった様子。解答はチラシに委ねるとして、当然ながら今チクルスはインキネンの意図を反映したものになっています。
私感を付け加えれば、順番はさて置き、1番で開始して7番で終えるというのは極めて自然な配置かと思慮します。これにたとえ1回しか聴く機会の無い聴き手にも、一夜のコンサートとしても楽しめる配列。これはほぼベストに近い組み合わせでしょう。

私にとってシベリウスは、クラシック事始めの時からスンナリと耳に入ってきた音楽でした。それは渡邉/日フィルの演奏で馴染んできたからでもありましょうが、それ以前に本能的な直感があったようにも思われます。
一言で言えば、シベリウスの音楽には日本人に流れている血液と共通する文法がある、ということ。民族的に考証しても、日本人とバルト・フィン族とには共通の祖先・風土があります。地理にも歴史にも無知な少年期でも、そのことが本能を刺激したのではないか、と。
バッハ、モーツァルトにしてもベートーヴェンにしても、私は学んで理解したという側面がありましたが、シベリウスは理屈ではなく自然に耳に馴染んでくる。

極く乱暴な言い方をすると、ドイツ語でもフランス語でも英語でも、“私は聴く、音楽を”という文法ですが、シベリウスの作品には“私は音楽を聴く”という形になっているものが多いと思われます。今回の曲目で言えば、第5交響曲の第2楽章でしょう。楽章の最後になって漸く“聴く”という動詞が出現するのですね。

ということで、日本人と同質の文法・文化を持つインキネンのシベリウス、説得力に欠ける訳がありません。何処がどう、という理屈無しにシベリウスに身を委ねることが出来ました。
これが正解と言うしかないテンポ、適切なバランスとイントネーション、その一句一句に頷いている自分があります。
またインキネンは第1番、第5番とも、終楽章とそれに先立つ楽章とはほぼアタッカで続けました。これがシベリウスの最後に到達した単一楽章の第7番を予感させることはもちろんでしょう。

日本全国の北欧音楽ファンが駆けつけたのでしょうか、前半から会場は暖かい拍手と歓声に包まれ、「シベリウス再発見」を祝していましたっけ。

最後に演奏会とは直接関係することではありませんが、日本フィル関連の話題を一つ。

つい最近、PHP新書で「ドラッカーとオーケストラの組織論」が発刊されました。これを著したのが、日本フィルの事務局に勤務されている山岸淳子さん。私もマエストロサロン発足当時からオーケストラの内部についていろいろご教示頂いている才媛です。
表題の通り、マネジメントの父ピーター・ドラッカーがオーケストラの組織に注目した点を紹介し、ドラッカーの経歴に沿いながらオーケストラの過去から現在、そして将来のあるべき姿までを包括的且つコンパクトに纏めた好著。女史の博識に加え、現場での実体験も交えたオーケストラ・ファン必読の一冊と言えるでしょう。
もちろんドラッカーの名前に惹かれて日頃クラシックには足を運ばない人も手に取られるでしょうが、むしろそういう方々にも是非読んで頂きたいと思いました。

シベリウス・チクルス第1回を聴きながらも感じましたが、オーケストラは活きた組織です。時代と共に変遷し、これからも社会と共に歩む存在。
この日の事例で言えば、プログラムにはソロ・チェロとして菊地知也氏の名前が印刷されていましたが、舞台に挙がっていたのは別の女性。確認はしていませんが、恐らく急病などの事情によって代演されたものと思われます。この辺りのオーケストラの対処については、同書第2章の「専門性の獲得と維持」という項で触れられています。
予期せぬアクシデントでしょうが、こうした事情と対処を知って演奏会を聴くのは、別の意味で大変興味深いし、現役世代には大いに参考になることでしょう。

指揮者インキネンと日本フィルの関係、オーケストラと指揮者との係わりについては第3章の「音楽の能力、成果を上げる能力」に事例として紹介されています。

御承知のように、日本フィルは公益法人化に向けて鋭意努力中。この書を読むと、オーケストラはただ音楽を演奏することだけが仕事ではないし、日本フィルが創設の時点から未来を据えた活動を行ってきた最先端の団体であることを知るでしょう。
聴衆にとっては素晴らしい演奏を聴くために演奏会に行くのが第一義ですが、社会との係わり、人間としてのあり方にも想いを馳せつつ一夜を分かち合うのも大切な時間。そのことを改めて認識したコンサートでした。
(同書の紹介については山岸さんご本人に了解を得たかったのですが、残念ながらお会いできませんでした。でも取り上げるなら今回しかないでしょ。ということで、山岸さんゴメンナサイ)

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