英国競馬1961(3)

半世紀前の英国クラシック回顧、いよいよダービーです。
三冠の第一関門である2000ギニーが大荒れだったことを紹介しましたが、この年のダービーもそれに負けない大穴が飛び出してしまいました。

勝馬は、ほとんどの人が予想だにしなかったサイディウム Psidium 、2000ギニーと同じ66対1というダービー史上稀にみる波乱でした。

2000ギニーに勝ったロッカヴォン Rockavon はダービーに登録が無く、最初から対象外。最初のクラシックで1番人気に支持されたピントゥリスキオ Pinturischio は、ドーピングという犯罪行為の犠牲となって戦線を離脱せざるを得ませんでした。
(当時はギャンブルに絡んだ不祥事が頻発していて、撲滅のための委員会が活動している最中の出来事でした)

ダービーに向けて中心馬が見当たらない中、押し出されるように1番人気(5対1)に支持されたのが、フランスから遠征してきたムーティエ Moutiers 。ロンシャン競馬場のクラシック・トライアルであるダリュー賞とオカール賞に連勝し、フランスではライト・ロイヤル Right Royal に次ぐ強豪と見做されていた馬。半兄のモンタヴァル Montaval がダービー2着という血統の良さからも期待されていました。

しかしムーティエは14着に大敗、恐らく馬場がこの馬には向かなかったのでしょう。

レースは堅い馬場、多頭数の割にはフェアな展開で進み、ゴール前1ハロンではディクタ・ドレーク Dicta Drake が抜け出します。
ほぼこの馬で決まりと思えたその時、前半は最後方にポツンと置かれていたサイディウムが直線で他馬を次々にゴボウ抜きして進出。あと僅か50ヤードの地点でディクタ・ドレークに並ぶと、ゴールでは2馬身もの差を付ける爆発的な末脚で大観衆の前を駆け抜けたのでした。
首差3着にパーダオ Pardao が食い込み、以下4着ソヴランゴ Sovrango 、5着シプリアニ Cipriani の順。

その余りの圧勝劇。予想もしなかった伏兵の凱旋に、エプサム競馬場の観衆は沈黙で凍り付いたという記録が残っています。

サイディウムの2歳時は7戦して僅かに1勝。6ハロンのデューク・オブ・エディンバラ・ステークスに勝ちましたが、本来行われるアスコット競馬がスタンド改築工事のためにケンプトン競馬場に移して行われたレースでした。
他にホーリス・ヒル・ステークスとデューハースト・ステークスが共に2着。フリーハンデでは8ストーン4ポンドを与えられ、トップのオパリーヌ Opaline からは17ポンド下に評価されます。

3歳になったサイディウムは、ケンプトンの2000ギニートライアルで3着。本番の2000ギニーにはスネイス騎手が騎乗し、50対1の人気。オッズが示すように、着外に敗退します。
このあとサイディウムはフランスのダリュー賞に挑戦しましたが、上記ムーティエの4着に敗退。この時騎乗したレスター・ピゴットは、同馬にはクラシック距離をステイする能力が無いとコメントし、ダービーでの騎乗依頼を断ってしまったほどでした。
(ピゴットは出れば本命になったかも知れないピントゥリスキオに騎乗予定でしたが、結局同馬は出走を断念。ピゴットはこの年のダービーには騎乗していません)

その結果、サイディウムにはフランスからロジャー・ポワンスレが呼ばれ、初騎乗での勝利となりました。ポワンスレはフランス人ということもあってイギリスでは全く人気がなく、そのことも英国のファンがサイディウムの勝利に冷たく反応した一因です。

サイディウムの調教師は、シェフィールドの競馬一家に生まれたハリー・ラグ。ジョッキーとして英国クラシックに13勝の輝かしい成績があり、調教師としてもこれが2勝目のクラシック制覇でした。
ラグは騎手としてダービーには3勝(フェルステッド Felstead 、ブレニム Blenheim 、ウォトリング・ストリート Watling Street)し、その後も調教師としてクラシック3勝を加えましたが、調教師としてのダービー優勝はサイディウムが最後となります。

ダービーのあと間も無くサイディウムは故障し、そのまま引退。結局ダービーは彼の最後のレースとなりましたが、フロック勝だという評価がある一方で、ダービーはその日に最も強い馬が勝ったと評する意見もありました。

確実に言えることは、サイディウムは愈々国際化していく競馬を象徴するような存在であったこと。
即ち、英国で調教され、ハンガリー人によってアイルランドで生産され、母はイタリア産馬であり、騎手はフランス人、と。

サイディウムの生産者アルパド・プレッシュ夫人は、ハンガリー生まれの銀行家の妻。当時英国ではほとんど知られていなかった女性ですが、ハンガリー出身で1876年のダービーに勝ったキスベール Kisber のオーナーの孫という因縁の持ち主でもありました。
サイディウムのオーナーは夫人名義ですが、実質的には夫妻が共同で生産した馬なのです。

サイディウムの母ディナレルラ Dinarella は、天才ブリーダーとして名高いフェデリコ・テシオの生産馬で、名牝プリティ・ポリー Pretty Polly のファミリーでもあります。

もう一つ、この年のダービーで話題になったことといえば、1着から3着までのオーナーが全て女性だったこと。
勝馬については既に紹介しましたが、2着ディクタ・ドレークのオーナーはフランスのレオン・ヴォルテラ夫人。3着パーダオは、イギリスとアメリカで多くの馬を所有したチャールズ・オリヴァー・イゼリン夫人。
三人の女性とも競馬界に多大な貢献を残したレディーたちで、とても一介のファンなどが気軽に口を利けるような存在ではありません。

女性馬主といえば、前回取り上げた二冠牝馬スウィート・ソレラ Sweet Solera のオーナーも女性。次回取り上げるセントレジャーでは、何と女性オーナーの馬が1着から5着まで独占するという快挙を成し遂げます。
馬主という視点で見れば、1961年は正に「女性の年」だったと言えるでしょう。

種牡馬としてのサイディウムは期待ほどの成果を残せませんでしたが、それでも1966年のダービー馬ソディウム Sodium を出し、その年のチャンピオン・サイヤーのタイトルを獲得します。
1970年にはアルゼンチンに輸出。日本との係わりでは、持ち込み馬で1970年の中日新聞杯で3着したタイプリンスという馬を覚えているオールド・ファンもおられるでしょう。

1961年のダービー、既に名前が挙がっているムーティエ、シプリアニ、ディクタ・ドレークに加え、8着に入ったバウンティアス Bounteous など後に日本に種牡馬として輸入され、我が国競馬史に名前を残す存在が何頭も出走していました。その意味でも味わい深いダービーだったと申せましょう。

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