英国競馬1961(2)

1961年の英国競馬、2回目は牝馬のクラシック戦線を見て行きましょう。

前回も触れたように、前年2歳馬のフリーハンデのトップに評価されたのはフランス牝馬のオパリーヌ Opaline Ⅱ でした。チーヴリー・パーク・ステークスの内容が良かったためですが、実はこのレース、英国の有力馬2頭、スウィート・ソレラ Sweet Solera とアンベルグリス Ambergris が共に風邪のために出走を取り消していたという恵まれた面があったのも否めません。

そのオパリーヌ、地元フランスでトライアル戦に選んだメゾン=ラフィット競馬場のアンプルーダンス賞では2着に負け、早々と英国遠征を断念。オパリーヌ以外のフランス牝馬もドーヴァー海峡を渡らなかったため、1961年の1000ギニーは地元馬だけで争われることになります。

人気は割れ、トライアルに2戦2勝のスウィート・ソレラと、エプサムのプリンセス・エリザベス・ステークスを逃げ切ったミスティファイ Mystify が4対1が1番人気を分け合っていました。

しかしレースは一方的、人気の一角スウィート・ソレラが事実上の逃げ切り勝ちで圧勝。2着には1馬身半差でアンベルグリス、離れた3着にはインディアン・メロディー Indian Melody 。以下4着はヴァーべナ Verbena 、5着がミスティファイの順。

スウィート・ソレラに騎乗した人気騎手ビル・リッカビーにとっては、これがクラシック初制覇。調教師は78歳の大ヴェテランのレジナルド・デイ師で、師のクラシック勝利は、1925年のソラリオ Solario (セントレジャー)以来と言うから驚きです。

スウィート・ソレラは、2歳時のフリーハンデでは9ストーン2ポンド、牝馬では3番目、全体でも5番目に評価されていた実力馬でした。(9ストーン2ポンドは3頭の牝馬が並び、他はアンベルグリスとシナーラ Cynara です)
そのスウィート・ソレラが、トライアルを連勝したにも拘らず抜けた1番人気にならなかったのは、血統故。

父ソロナウェー Solonaway の評価はスプリンター、牝系も特に優れたものではなかったため、いわゆる血統の専門家たちは同馬を「クラシック・タイプ」では無いとして無視していたのでした。

スウィート・ソレラがニューマーケットのクラシックを制した時、血統論者たちは一言もありませんでした。当時は日本でもそうでしたが、特に父馬を「クラシック・タイプ」と「ハンディキャップ・タイプ」に分け、“この血統はクラシックに必要な底力に欠ける” と決め付けるワンパターンな評価が多かったものです。

1000ギニーを楽勝したスウィート・ソレラは、そのままオークスに向かいます。ここでも問題にされたのは、血統面で同馬が1マイル半を克服できるか、ということ。エプサム競馬場のタフなコースも死角と看做す評者も多かったものです。

それでもスウィート・ソレラは11対4の1番人気。今回は血統よりも実績が評価されたのが実情でしょう。

レースでは、スウィート・ソレラは中団待機策。直線ではスムースに進出して先行馬を捉え、一旦アンベルグリスに交わされたものの、最後の1ハロンでは再び鋭く伸びて先頭を奪い返すと、2着アンベルグリスに1馬身半差(1000ギニーと同じ着差)を付けて快勝しました。
3着はアンヌ・ラ・ドゥース Anne la Douce 、4着ツナ・ゲイル Tuna Gail 、5着はラ・ベルジェレット La Bergerette 。

こうしてスウィート・ソレラはクラシック2冠を達成します。とかく牝馬はムラと評されますが、英国の牝馬クラシック戦線は、これで4年連続2冠馬誕生となりました。
(1958年はベラ・パオラ Bella Paola 、1959年プティット・エトワール Petite Etoile 、1960年がネヴァー・トゥー・レイト Never Too Late )

スウィート・ソレラを生産したのは、アイルランドのD.M.ウォーカー夫人。夫人はスウィート・ソレラが生まれた1958年に亡くなったため、翌年、ニューマーケットのイヤリング・セールに売りに出され、デイ調教師が1850ギニーで購入します。馬主はS.M.カステロ夫人。

2歳時、スウィート・ソレラはケンプトンのデビュー戦で2着、ロイヤル・アスコットのクィーン・メアリ・ステークスで3着した後、3戦目のプリンセス・ステークス(ニューマーケット)で初勝利。
続くチェリー・ヒントン・ステークス(これもニューマーケット)も連勝してチーヴリー・パーク・ステークスを目指しますが、上記のように風邪で欠場、2歳シーズンを終えます。

3歳になったスウィート・ソレラは、初戦として4月3日、ケンプトン競馬場の1000ギニー・トライアルを順当に勝ち、2戦目に4月15日、サースク競馬場のサースク・クラシック・トライアルを選びます。
このトライアル、勝つには勝ったものの、最後の1ハロンで先頭に立つ際、内に鋭く切れ込んでヘンリー・ザ・セヴンス Henry The Seventh の進路を妨害してしまいます。

当時、レース審判は自ら行動を起こすことは滅多に無く、被害を受けた陣営の抗議によって進路妨害が審議されるのが慣習でした。
このレースでは、2着馬陣営(ヘンリー・ザ・セヴンスの馬主はジョエル氏、調教師はエルジー師)は抗議せず、スウィート・ソレラの勝利は幸運だったと言わざるを得ません。
(この進路妨害はジャパン・カップでのブエナビスタより決定的なものだったようです。)

こうしてスウィート・ソレラは、シーズン無敗のまま1000ギニーに挑戦したのでした。

オークスの後、彼女は一戦もすることなく引退して繁殖に入りましたが、残念ながら母馬としては目立った活躍馬を出すことはありませんでした。

最後にスウィート・ソレラの父、ソロナウェーにも簡単に触れておきましょう。

ソロナウェーは、1949年のアイルランド2000ギニーを逃げ切って勝った馬ですが、本質的にはスプリンター。コーク・アンド・オルリー・ステークスとダイアデム・ステークスという2つの6ハロン戦の重賞にも勝っているように、短距離戦を得意とするスピード・タイプの競走馬でした。
それでも愛2000ギニーに勝てたのは、単純にアイルランドのマイラーのレヴェルが低かったからでしょう。

スウィート・ソレラが牝馬2冠を達成した時、既にソロナウェーは日本に輸出(1958年)された後でした。
日本の生産界で彼女のクラシック制覇がどのように伝えられたのか定かではありませんが、ソロナウェーの産駒たちが我が国のターフにデビューしたのは翌年1962年のこと。

初年度産駒のヤマニンパールが桜花賞で5着に入着して注目され、3年目の世代からダービー馬キーストン、桜花賞馬ハツユキ、オークス馬ベロナと、何と3頭ものクラシック・ホースを輩出します。いずれも英国からのニュースが飛び込んできた年に種付けされた馬たちです。(これによって配合が決まったとは思えませんが・・・)

その後もソロナウェーはテイトオー(ダービー)、ヤマピット(オークス)を出し、日本では堂々たる「クラシック・タイプ」の種牡馬として活躍を続けました。
ただ当時の日本では名競走馬が生産界で活躍する場はまだまだ少なく、ソロナウェーのサイヤーラインが一代で絶えてしまったのは真に残念なことでした。

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