英国競馬1961(5)
1961年の英国競馬、最後にクラシック以外の大レースを簡単に振り返っておきましょう。イギリス以外の競馬に付いても若干。
先ず古馬戦線ですが、この年はプティット・エトワール Petite Etoile 最後のシーズンとなりました。
1959年の2冠牝馬となった同馬は、4歳も現役に留まってコロネーション・カップなど2勝。この年、オーナーだったアリ・カーンが事故で亡くなり、プティット・エトワールの所有権は息子の若きアガ・カーン(現在のアガ・カーン)に移ります。
新オーナーの判断でもう一シーズン現役を続行することが決まったプティット・エトワールでしたが、流石にピーク時の切れ足は影を潜め、皮肉にもケンプトンに創設されたプリンス・アリ・カーン・メモリアルでは2着に敗退。
最後のレースとなったクイーン・エリザベス二世ステークスも2着と有終の美こそ飾れなかったものの、コロネーション・カップ2連覇など6戦4勝の成績で現役を終えました。マーレス厩舎、ピゴット騎乗のコンビは、英国の一時代を築いた名シーンの一つです。
さて古馬の最高峰と言えるのがキング・ジョージ6世クイーン・エリザベス・ステークス。
前年の2冠馬セント・バディ St Paddy は、エクリプス・ステークスなど3連勝で英国の期待を一身に集めます。この馬もまたマーレス厩舎/レスター・ピゴットのコンビ。
僅かに4頭立てで行われた大レース(ロッカヴォン Rockavon の項でも紹介)でしたが、4歳のセント・バディをまるで子供扱いのように相手にしなかったのが、フランスから遠征してきた3歳馬ライト・ロイヤル五世 Right Royal Ⅴ です。
ライト・ロイヤルはこの年のフランスの二冠馬(仏2000ギニーと仏ダービー)。キングジョージはフランスのサラブレッドの質の高さを見せ付けられる結果に終わり、英国では競馬改革の必要性が声高に議論される要因の一つにもなったほどでした。
ところが、シーズンの終わりには無敵と思われたライト・ロイヤルをさえ子供扱いする強豪が出現します。それがイタリアの3歳馬モルヴェド Molvedo 。
モルヴェドはロンシャンの大一番・凱旋門賞でライト・ロイヤルを2馬身差に切って捨て、ヨーロッパの最強馬に君臨します。父は凱旋門賞2連覇のリボー Ribot 。
この年のタイムフォームは、モルヴェドを137、ライト・ロイヤル135、セント・バディを132に評価しています。ダービー馬サイディウム Psidium は130。
さてアイルランドは、1961年の段階では競馬の賞金も廉く、競走馬のレヴェルもイギリスより大分落ちるのが実情でした。
例えばアイルランド・オークスは、エプサムではスウィート・ソレラ Sweet Solera に完敗したアンベルグリス Anbergris とインディアン・メロディー Indian melody が英国から遠征して1・2着独占、この当時の典型的なアイルランドのクラシック・レースのパターンを反映。
それはアイルランド・ダービーでも同じで、優勝はイギリスからチャレンジしたユア・ハイネス Your Highness 。イギリスではとてもクラシックのレヴェルには遠い馬と見做されていましたから、この勝利はアイルランドでも大きなショックでした。
しかも2・3着に入ったのは、何と未勝利馬。1961年のアイルランド・ダービーは、エプサム同様に誰も期待していなかった馬同士での決着となったのでした。
愛ダービーのユア・ハイネスにしても、ダービー2着のディクタ・ドレーク Dicta Drake にしても、この年のターフを賑わせた多くの馬が、後に日本で種牡馬として活躍しているのも我々の興味を惹くところでしょう。
名前だけ列記すれば、バウンテアス Bounteous 、アポッスル Apostle 、ムーティエ Moutiers 、シプリアニ Cipriani 、ダイ・ハード Die Hard 、イーグル Eagle 、フロリバンダ Floribunda 、ハイ・ハット High Hat 、チューダー・ペリオット Tudor Period などなど。
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