英国競馬1961(4)

1961年の英国クラシック・レース、最後はセントレジャーです。
前回紹介したように、ダービー馬サイディウム Psidium は早々と引退。セントレジャーに向けては、先ずダービー出走組の動向に注目が集まりました。

エプサムで1番人気になったムーティエ Moutiers は、帰国して臨んだ(3番人気)パリ大賞典でも着外に惨敗、戦線から離脱します。
一方、同じフランス馬でダービーは2着に惜敗したディクタ・ドレーク Dicta Drake は、帰国初戦のサン=クルー大賞典で古馬相手に1番人気を集め、見事期待に応えて2着以下に3馬身差を付けて圧勝。
同馬を管理するフランソワ・マテ調教師はドンカスター遠征を決断します。

サン=クルーからぶっつけ本番でセントレジャーに臨んだディクタ・ドレークは、6対4の1番人気。手綱を取るガルシア騎手も同馬のスタミナには自信満々、直線に入る手前で早くも先頭に立ち、他馬とのスタミナ勝負に持ち込みました。

ところが、意外やディクタ・ドレークは最後で伸びず、好位を追走してきたオーレリアス Aurelius に交わされてしまいます。
オーレリアスはそのまま先頭を維持し、追い込んできたバウンティアス Bounteous に4分の3馬身差を付けて優勝。同じく4分の3馬身差3着に本命のディクタ・ドレークが粘り、以下4着パーダオ Pardao 、5着センパーヴィヴァム Sempervivum の順。
1着から5着までの馬全てが女性馬主であったことは、前回も紹介した通り。

オーレリアスは9対2の3番人気。名伯楽ノエル・マーレス師の管理馬で、鞍上は当時マーレス厩舎の主戦騎手だった名手レスター・ピゴットです。
これはマーレス師にとって3勝目のセントレジャー、10勝目のクラシック制覇でもありました。(マーレス厩舎はこの後もクラシックに勝ち続け、生涯では19勝を記録します)
またピゴットは、前年のセント・バディ St Paddy に続く2度目のセントレジャー。彼はその後もクラシック制覇を重ね、セントレジャーは8勝の大記録を打ち立てます。(英国のクラシック30勝は最多)

勝ったオーレリアスは、アイルランドでタリー・ホー牧場が生産した大柄な鹿毛馬。その大きさ故に同馬は調教困難と見做され、イヤリング・セールでマーレス師はヴェラ・ライリー夫人のために同馬をたった5000ギニーという破格の値段で競り落とすことができたのです。

当然ながらオーレリアスは中々仕上がらず、2歳時は僅か一戦のみ。ロイヤル・ロッジ・ステークスで4着というのが唯一の戦績でした。
(それでも格の高いレースを初出走に選択するあたり、マーレス師が同馬の素質を見抜いていたことが窺われます)

1961年の春の時点で、オーレリアスは同厩のピントゥリスキオ(これまでにも度々登場)より劣ると見做されていましたが、それでもクレイヴァン・ステークスを快勝して注目されます。
2000ギニーはピントゥリスキオに任せて出走せず、ダービーのトライアルとして10ハロンのニューマーケット・ステークスに駒を進めて1番人気に支持されました。
しかし、ここは伏兵ジ・アックス The Axe にまんまんと逃げ切られて2着敗退。

続くダービーは堅い馬場を嫌って回避し、ロイヤル・アスコットでのキング・エドワード7世ステークスに万全の状態で臨みました。
断念ダービーとも言えるこのレースでオーレリアスは期待に応え、2着に2馬身差を付けて完勝。漸くクラシック最前線に躍り出ます。

最後のクラシックを目標にしたオーレリアスは、この後休養を取って8月のヨークから始動。トライアルにヨークのグレート・ヴォルティジュール・ステークスを選びます。
ここにはダービー出走組からセントレジャーを目指す馬も多く、人気はダービー3着のパーダオ Pardao と同7着のジャスト・グレイト Just Great が分け合っていました。

オーレリアスは休み明けにも拘わらず、直線では早目に先頭に立ったジャスト・グレートを追い詰めての2着惜敗。3着に入ったパーダオには4馬身もの差を付けたことで、オーレリアスの能力がクラシック・クラスであることを証明して見せます。

そして万全の態勢で臨んだのがセントレジャー。当初は競走馬になることも危ぶまれた同馬をクラシックホースに仕上げたマーレス師、流石に名伯楽と謳われた所以でしょう。
3歳のオーレリアスはこれで終戦。5戦3勝2着2回と、ほぼパーフェクトな戦績を残しました。

明けて4歳になったオーレリアスは5戦、クーム・ステークス(サンダウン)、ハードウィック・ステークス(ロイヤル・アスコット)、アタランタ・ステークス(サンダウン)と3勝したものの、キング・ジョージはマッチ Match Ⅲ の2着に惜敗、最後の大一番である凱旋門賞は着外の敗退に終わりました。

引退したオーレリアスは、残念なことに種牡馬としては完全な失敗。去勢されて再び現役に戻り、障害レースに活路を見出します。
新しい分野でもそこそこ活躍したオーレリアスは、1967年(9歳)にはチャンピオン・ハードル(障害の大レース)で2着に入線。しかし直線入口で他馬の進路を妨害した廉で、失格するという波乱に。

以上オーレリアスは、クラシック・ホースとしては最も劇的な生涯を歩んだ馬と言えるのではないでしょうか。

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